安全基地のなかで少しずつ回復していったこと
私は精神疾患の診断を受けて、14年になる。
長い道のりだったようで、今思うともう14年も経ったのかと早く感じてしまうほどもっと時間が欲しいようにも思う。
医療者や福祉職の方、役所の方など色々な人に救ってもらって今がある。
でも、何より自分のやってきたことが今につながっていると振り返れる。
状態はまずまず重かったと思う。
家にいてもいろんな人から攻撃されていると思いながら、安心なんてほど遠い恐怖の毎日が続いていた。
苦しくなんのために息をしているのかわからない日々だった。
小学生の頃から「死にたい」と思うことがたまにあったのが、診断を受ける前には毎日ずっとそのことしか考えていなかった。
死にたい気持ちの頻度が軽減されていったのは診断を受けてから9年目の頃。
その時は環境調整が行われた時だった。
物理的・心理的ともに母親との分離をし始める環境調整をし、まだ病状がしんどい中だったが就職という環境変化の時だった。
分離は共依存からの脱却作業だった。
この作業はすごく大変だったし、今でもよく耐えたなと思う。
支援者がいなければ、
・今の私はいなかったか
・存在していなかったか
のどちらかだと思う。
その時の支援者の中の1人である、精神科の主治医がいた。
共依存からの脱却作業より4年前から診てくれていた主治医だ。
(主治医は家族関係が病状の背景にあると見立てたとのこと)
精神科の治療には、環境調整・薬物療法・精神療法の3本柱があると最近になってその主治医に教えてもらった。
そして環境調整と精神療法としてだと思うが、私の依存先を増やしていき
みんなで支えるチーム
を作ろうと思い、他の支援者たちへ繋いでいったと振り返りで教えてくれた。
私の解釈では
依存先(チーム)= 安全基地だ。
そのチームとの関わりで一番わかりやすい出来事(安全基地になった瞬間)があった。
死にたい気持ちの頻度が少しずつ減っていく中で、死にたいと思い続けている時に支援者を裏切りたくないという気持ちで行動を起こさない約束をしていたことがあった。
それまでは何とも思わなかったし、死にたい時に誰の顔も浮かばなかった。
これもコツコツ積み上げてきた支援者との関わりによるものだと思う。
治療の過程で私から支援者と離れる選択もあったはずだし、支援者のことを嫌になったりすることもあったはずだけど、「なんとかしたい」という私の中の小さな炎を支援者が支えてくれたことと、諦めずにいた私自身がいたことが「コツコツ積み上げた支援者との関わり」「私の安全基地」をつくったんだと思う。
今は支援者という枠の安全基地から、社会との繋がりのなかで安全基地をつくっていくようにしている。
支援者から巣立っていき、社会へ戻っていくプロセスだ。
そのうちの一つでは、仕事という枠の社会がある。
あの時、就職してから5年が経とうとしている。
職場である今の部署は心理的安全性が高い方だからか、仕事をする上での安全基地の一つにもなってきている。
安心して幅広い仕事ができるような気がする。
チャレンジも安心してやれる。
それは、私の安全基地(今の部署)があるからだ。
少しずつ安全基地が増えていくことで、私の経験(共依存・マルトリートメント・孤独)が私自身の生活や人生に悪い影響を与えなくなると思う。
仕事関係でも、友人関係でも、恋人関係でも、コミュニティでも、その関係が「依存先=安全基地」であればよくなっていくんだなと、最近理解したところだからこれからだ。
まだまだしんどい時が多いけど、そうでない日が増えていってる。
これも安全基地の影響が大きくあるからだ。
なぜなら、「安全基地があること=安心して生きていくことができる」からだ。
私は今の精神医療・福祉はステキだなって思うし、色々な歴史や背景があったと思うし、それでも職を全うして今の姿を創り上げていっている全ての方にリスペクトの気持ちがある。
私もこれからも職を全うしていこう。
「かっこいいみんな」のように。