中心者 - 主体 -

喧嘩してはいけないとお思いのお人は余りに多いのを感じます。しかもその感覚はいことのように想い込んでらっしゃる。どうしてそんなふうに育ってしまったのだろうか?環境に染まったに決まっている‥と私は言いたい。産れたばかりの赤子には親を認識する知恵は育ってなくて、只ただ認知するのみ。刷り込みによって主(しゅ)を認知していると私は捉える。旧約でいうヤハウェに相当しよう。仏法的にはになるだろう。

赤子にとってそれは絶対的な存在であれば、只ただ染まるのみ。赤子は何をしても許される。何があっても許される。それが赤子との関係。それでこの関係はいつまで続くべきか?基本中の基本を身に付けさせるまではこの関係が善い‥私はそう思う。基本中の基本は家庭により社会により文化によって異なるのは已(や)むを得ないだろうな。ゆっくり育っている子を早い子に合わすのは賛成しかねるし、平均をとるというのも私は納得できない。

アルプスの少女ハイジの場合、基本中の基本が身に付くまで主との善い関係が保たれたと私は理解する。その意味でハイジの人生は幸せなスタートを切ることができたと言うことになる。幸せなスタートを切ったハイジは苛められても騙されてもナニがあっても乗越えて進んでいける。思えばナザレのイエスも幸せなスタートを切っている。あなたの感覚には、もしかして彼が不幸なスタートを切ったと映っているだろうか?それなら間違いですよ。

話を戻します。「喧嘩してはいけない」と云うのは「食事してはいけない」というのに通じる。その心は? どちらも遣り方を間違えると危険です。赤子は許される存在だと述べました。主は許す‥それなのに許さず叱りつけるなら、そんなあなたは間違っている。そんなあなたは主を信じていない。主の代行者‥例えば親犬・親猫は赤子の全てを受けいれ許す。親もそのように許されるなかで育っている。人も赤子の全てを許し育てるほうがいい。

人間のあなたには「人間を好きなあなたは好ましい」と言いたい。人間を好きなあなたなら他人を傷つけたくはないだろう?そうであれば喧嘩するにしても相手(人間)を好きで喧嘩する。だから相手の幸せが目的で喧嘩する。理解できずに誤解が生まれることはあっても、それも途中のアクシデントと知ることができる。主は中心者に違いない。私はそう思う。主の代行者は中心者としての責任をも代行するから中心者の自覚を持つべきは当然です。

この世界あるいは自然と同義語だと考えても強(あなが)ち間違いではない。「世界自然(たい)」と理解なさるとき、あなたの必然としてを大切にしようとなさる。世界はあなたの体なのだから、隣人はあなたの体なのだから、真っ当なあなたはご自分の体を傷つけたくないのだから‥です。隣人を「自分とは別モノ」と思う思想は主の体を切り刻む悪行。それは自分自身を切り刻む悪行に通じて、どうして心穏やかで居られようか。

その悪行は当人のみでなく、その社会・集団にも返ってくる結果、人心は不安定さを増すことになる。主の体あなたの体。そう自覚するあなたは主体の人、ここで言うところの中心(者)、世界の中心としてどっしり構えるあなたがコセコセした生き方の日常に戻ることは最早考えられまい。愉快で愉快で堪らない主体たるあなた‥私はそう思う。私もそう在りたいと思う。

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