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髪をゆらす風にさえ気がつかない世界がここにある

私は死にたいという言葉で安易に自分の憤りを処す人間で在り続けている―。一歳と四歳の娘と始めたパリでの母子生活。死から逃れるための突然の帰国。夫との断絶の中、混迷する東京での日々...。生きることの困難を綴る二年間の軌跡。 (Google books紹介文より)

「パリの砂漠、東京の蜃気楼・金原ひとみ」を読み終えた。

金原ひとみさんがパリと東京で過ごした日々を綴ったエッセイ。まずこれを読んで思ったのが、金原さんは気取った女性なんだなということ。でも自分の思いに素直で忠実だということにも気が付く。気取った女性というのは往々にして自分をかっこよく見せようと取り繕うことが多いという印象を持っているが、金原さんは取り繕うこともせずありのままに気取っている。実にかっこいい。

パリにいても東京にいても常にネガティブ。ちょっと楽しいことがあってもその裏にある暗い部分につい目がいってしまう。もっと気楽に生きたらいいのにと言う人はいるが、そうはできない性格(生き方といってもいいかもしれない)の人って確かにいる。常に苦悩が付きまとう苦しさは本人にしかわからないし、この本を読んだところでそれが手に取るようにわかるわけではないが、私はとても共感できる部分が多々あった。本文の金原さんと同じように中指を立てたくなる瞬間が何度もあった。しかし、ある意味書くことができる彼女は幸せだと思う。書いて世に出してまた思いの丈を書いて世に出す。ほとんどの人はそうゆう術がなく、日々悶々として過ごしている。果てには死んでしまう人もいる。まぁそれが世の中というものなのだけど...

この砂漠のように灼かれた大地を裸足で飛び跳ねながら生き続けることに、人は何故堪えられるのだろう。爛れた足を癒すかの慈悲や愛情でさえもまた、誰かを傷つけるかもしれないというのに。

これはパリ生活の中で出た言葉。誰もが生活をヒリヒリしながら保っているのがよくわかる。


話は逸れるが、よく自分探しで海外に行く人がいる。そんな話を聞くたびに「自分探し?今ここにいるのが自分だよ。世界のどこに行ったとしてもそのまんまの自分しかいないよ」と、言いたくなる。確かに海外に行ってみて考えが変わったり、物の見方が変わったりすることはあるだろう。でもそれは「生活」をしてみて初めてわかること。生活とは、そこで自分に課せられたことをやり、周りの人々と関わって、綺麗なところも汚いところも見て経験してやっと得るものだと思っている。数週間、あるいは数ヶ月の間に観光地を回って美味しい料理を食べて、綺麗なホテルに泊まって...そんな自分探しでは何も見つからない。私もニューヨーク、パリ、ドイツ、イタリアで暮らした経験がある。でも今思うとそれは「生活」ではなかった。綺麗なところも汚いところも見たし、自分に課せられた作業もして、さまざまな人と関わって思ったようにならないジレンマに苦しんだりもした。でも私は金原さんのように反吐を吐きながらもそれに堪えることはしなかった。ここがダメだと思ったら次へ、そこもダメならまた次へと国を変える。あれから何年経っただろう。もうズッポリと日本のぬるま湯の中にいる。それはどうぞと与えられたぬるま湯ではなく、自分を抑えて抑えて得たぬるま湯だ。決してお気楽なぬるま湯ではない。時々不平不満を言ってみても何も行動することなく誰かに思いの丈を訴えることなく過ごしている。これは堪えているのではない。諦めているのだ。この本を読んで自分の化けの皮が剥がれた感じがした。悔しいけれど。

洒落た表紙にイカした金原ひとみが写っている。

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ジャケ買いでもいいから、彼女の本性を読んでみるといい。きっと自分の化けの皮が剥がれる瞬間が心地よく感じることができると思う。



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