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今後病状が変わる障害を抱えると考える将来設計

これは完全に自分のためのものであるし、書き残す必要もあるのか定かではないがなんとなく書いておきたくなって、筆を取る。
さて、EDS、エーラスダンロス症候群はたまに寝たきりとなる人がいる難病であることは周知の事実、私はこれと疑われた段階から確証を得た今まで身分が確立していない。
学生でもないし、社会人でもない。障害の手当を受け取りながらほそぼそと仕事をして、家族の幇助なしに一人暮らしをしながら将来を模索するためにまだ学生の身分も保っている、極めてグレーゾーンな人間である。
当然その将来は決まっているわけもなく、家族と深くこれについて話し合ったこともない。
最近、実家に顔を出してみたが痩せ細って動けない私を見てもちろん親は驚いた。そして親の介護ができないとわかると確かに態度が変わる。そりゃそうだ、一人の子供に大変な学費をかけて勉強させ、やっと社会に出られると思ったらこの有様だ。文句のひとつやふたつ言いたくなるだろう。
病院に付き添わなければならないのかと落胆するように言う彼らを見てなんだか私まで気が滅入り、そういえば私はどうやったら一人で生きていくことができるんだろうなんて考えた。だって、これからもっと介護が必要になる体でいつまでも一人暮らしをしているわけにもいかないし、かといって過去に揉めるに揉めて逃げるように出て行った実家に「助けてください、なんなら身体的にキャパシティがあるので介抱してください」なんて言えるわけがない。

私の次の段階は大学で新たなことを学びたいという志のみで、その後また社会に戻るのか、病院にお世話になり続けるのか、はたしてグループホームに入るのかすら決まっていないので、親からしても「なんだこの自由人」としか思わないだろう。
正直、私もそう思う。自分が一人でできることはどんどん狭まっていく。なのに心だけは一丁前にまだ志高めのがきんちょで、なにひとつ達成できそうにない目標ばかり立てている。まわりからみたらただの無責任な人間である。いい年して。

だから、ちょっとだけ将来についての設計図を書きたい。

まず、もうあと2年間頑張って大学に物理的な通学をするのは無理だと想定するべきだと思う。精神的にはできると思いたいが、体はもううんざりしている。だから、オンラインで終わらせられるような学科に途中で変更するべきかもしれない。そしてそこから、どうしよう。
仮に卒業できたとする。途中で入院や実家暮らしになったとしても、なんとかやり遂げる思いさえ消えなければここは遂行できる。では次は?
社会人としてのスキルもほぼないと言っていいくらい中途半端な状態で学業に逃げた私に何があるかといわれたら、はっきり言ってなにもない。
障害者雇用でどうにかするにも、あまりにもスキルがない。実践例もなければ実力もほぼないのである。
パソコンが打てなくなる将来があるとして、これから先時代はパソコンを打てないと話にならないことが山ほど出てくる。実際にこれを書いているように、パソコンがなければ私の生命線はほぼ皆無と言っていい。そんな時に頼れる身内なんていないし、ひとりでどうにかしていかなければいけないのは自明。
でも、できるだろうか。仕事は?趣味は?寝るところはどこになる?

雲行きが怪しくなってきた。
もしバリバリとパソコンを打てる体が戻ってくるのならば(薬物療法でも、なんでもいい)、大学で人文学科をやるよりCSやITに関わることを勉強した方がいいのかもしれない。実際「やりたいことを勉強する」を抱いて大学生に逆戻りしたわけだが、これはもう身体的に無理だ。将来を考えてもこれをやっていたら生きていかれない。つまり消去法というわけでもないが、自分が本当に将来生きていかねばならなくなった時に必要な選択を今、しなければならないのかもしれない。
そう考えると、論文を書いていろいろと資料を集めて学会に出て、論文を書いてという人文学科はほとんど無理と言い切れる。頭だけは幸いまだなんとかなっているが、秀でているわけでもない。健常な哲学者、人類学者、社会学者には到底太刀打ちできないくらい弱くなっている未来は想像に難くない。
つまり私は、もう生き残れる道を狭められているということ。そしてそれをそろそろ受け入れなければならないのである。

難病とは厄介で、治療方法がない。だから、対症療法でどうにかするしかない。その中にはもちろん将来の選択肢も入ってくる。
結婚なんてもう見えないうちのひとつだし、一人暮らしだってそろそろ終焉を迎えねばならない。一体どうしたら、私が私らしく生きていける、尊厳を失わない生活ができるだろうか。
将来が真っ暗である、

節約、投資、そんなものももちろん関わってくるが、今はまずどうしたらサバイブできるのか、どうしたら生活保護や年金生活という自分の望まない結果に進んでいってしまわないかを考えないと話が始まらない。
でも、わからない。
きっと診療所で詳しい話をしながら、将来のことについてのカウンセリングやケースワーカーとの会話はこれから多数発生するイベントだとは思う。が、その中でいいアドバイスをもらえなかったらどうしよう。
親と共存していくしかないのか。
また入院生活を強いられて、できないことだらけの自分を見つめる時間がたっぷり設けられて精神的におかしくなってしまうのだろうか。それは避けたい。
でも、今見えているのはそんなことしかない。

難病を抱えながら生きている人たち、将来病状が悪化する恐れのある人たちは一体どうやって”動ける今”を有効活用しているんだろうか。
どうやったら私は彼らのように論理的に、道筋を立てながら計画を練って生きていけるだろうか。猪突猛進型の私にはさっぱりわからない領域だ。

とりあえず、大学での専攻を早めに変えて、どうにかして寝たきりの将来を考慮した学位、職業を探したい。
誰に相談したらいいのかもまるで検討つかないが、今ならリサーチする力は残っている。だからやるしかないのだ。
これは割と本気で、毎日引きこもりのように読書と映画鑑賞ばかりしていないでリサーチをせねばらならない。(自分を追い詰めろ!)

きっと専攻を変える期限も迫ってきている。今もし1からやり直しと言われたらもうそれは無理な話だし、ここまで築いてきたいろいろな経験は無駄になる。
どうしたものだろうか。
今アメリカで一人暮らし、問題は増え続けているがまだ出来ている。ただもし、ここでライフラインひとつが消えてしまったら(車が壊れたとか、車の運転がそもそも無理だとかいう話)、いよいよ私の生活は破綻する。
そんな時に武器になるものなど何も持っていないのだ。

せっかく学業に再び戻ることができたのだし、いい加減考え始めなければいけないことは考えないといけない。友人を頼ってばかりではまずい。前述の通り、パートナー探しという最難関すぎるイベントに参加する余裕はもうない。

生きていける術を探し、どうにか尊厳のある人間生活を送って、最終的に介護を求めて死ぬことになるこの現実をどう受け止めたらいいのかわからないし、受け止めてからどう動けばいいのかも埒が明かない。
だから今はとにかくほしい治療を享受してどうにかしていくしかないのだ。

恐ろしい病気ではある。私自身そこまで自覚をしていないが、周りがあまりにも怖がるのでなんとなくわかってきた。では、次はどうしようか。
社会のお荷物にならないように、私は私として生きていくために何が必要か、今一度考える必要があるだろう。

身体的な制御がある私にとって、何がどういうプロセスを踏めば多少は健常としていられるのかをひとつひとつ考えていかねばならない。
どんな対症療法が本当に自分に適切なのかも、再度考えて病院選びをすることも視野に入れなければならない。

やることは大積みだ。
まずは大学の専攻から考え直そう。将来どんなことが自分に残されているかは医師と話そう。そして、どんな介護が必要で、誰にしてもらわなければならないかも考えないといけない。
割と、時間がない。

そんな焦りの中とりあえず勢いで書き記してしまったが、答えはもちろん脈略もない文章になっていることだろう。
推敲などせずネットの海に放り投げて、一度眠る。
この長期的な作戦を立てるには、ひとりではあまりも無力だ。

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