身体障害者手帳申請、はじめの一歩。
身体障害者手帳の申請を勧められて診断書作成をしてきたから、それに付随する話。
診察を受けて、簡単な筋力テストをしながら肢体不自由として申請するために診断書を待っている段階である。どんなことに困っているか話すとき、なんだか強気になりそうな自分がいたことに気づく。私はまだこんなこともできる、あれもできる、頑張ったら全部できるんだと言いたい。でもできないことばかりが質問として飛んできて、虚勢を上塗りするように「出来ない」が自分を染めていった。
だが、今後どんな診断書がまとまってくるのか何故か少し楽しみである。清書された診断書を持って役所へ行く手間は大分面倒ではあるけれど、何級であってもこれでひとつ日本で暮らす未来が確定するような気がしている。
障害者雇用で働く未来もあるかもしれないし、障害年金で細々とパラサイトシングル(ただの子供部屋ニートだ)をするか、まだ不明瞭な未来ではあるがこれが最初のステップとなることだけは定かなわけだから。
こうやって物事が進んでいくとき、いつも他人事のように過程を見ている自分がいる。難病だとわかった時も、診察中も、痛みを訴えるメールを書いている時も、身体障害者であると認められた時もすべて何かしらの手違いで誰かの代わりを演じているだけのような、スクリーンでただ映画を見ていて現実の私は不自由なく動けているような、そんな感覚。
あまり思い出を持たないのも、記憶が定かでなくなってしまうのもこういった自己からの逃避のせいなのかもしれないとたまに思う。自分の感情に蓋をしながら目の前で淡々と進んでいく物事をただ見つめていて、それらが全く知らない誰かの人生であるかのように振る舞って自分を守りぬこうとしているのかもしれない、まだ人生は何色にも染まっていないから大丈夫だとどこかで自分を説得して全て帳消しにしようとしているんだろうか。
人生が一冊の本で完結するのなら、はじめの一行目を何度も何度も消しゴムで潰して、また書いて、消して、また書いて、何かが書かれていた痕跡だけが誰にでもわかるような形で増えていって、それでもまだ消して、文章が始まらない。始めようとしていない。上書きされた字さえもが過去の消された文字に混ざってわかりにくくなってきていて、そのうち何度も削り取られたその一頁目自体が破れてしまうかもしれないのにまだ消している。
まだ人生は始まったばかりだと言わんばかりに私は現実を受け入れない。意固地なのか逃避なのかもう定かではないくらいには受け入れていない。過去の経験や友達と繰り広げた会話でさえもこんな感覚で消していってしまうから、消しゴムで消えた不明瞭な文字をながめているだけのような時間がある。誰かと共有した時間をその人から聞いて初めて、そんなこともあったかもしれないと消えた文字をじっくり見るような人生だから、面白い人間になれない。
こうしてnoteを書き続けるのは、そんな一行目をいい加減書き進めたいと思ったからなのかもしれない。受け入れられなくても、書き残すことで闘病を肯定して、未来の自分が読み返すことを願っているのかもしれない。
これから生活に色々な変化が起きることは承知のはずなのに未だそれを認められない自分へ、いつかそれを認めた自分がどんな言葉をここに思い出して書き残すか楽しみだ。