今日のリンク「沖縄歴史編」 2022/08/01
ちょうど、「縄文海進と古神道、神社、天皇制(27)、天鈿女命の陰謀Ⅱ」で呉王夫差がでてきて、朝鮮半島経由、東シナ海経由だけじゃなくて、三国時代の呉国(今の揚子江周辺)から沖縄経由で天鈿女命(アメノウズメノミコト)と天照大神が居る佐賀県神崎町、現在の吉野ケ里遺跡近くの佐賀の津との交易があったと思われるので、沖縄の歴史に疎いので調べた。
※縄文海進と古神道、神社、天皇制(26)、天鈿女命の陰謀Ⅰ
それと、「マガジン『エレーナ少佐のサドガシマ作戦』」で「アニータ少尉のオキナワ作戦」を書いていて、沖縄、南西諸島が舞台なのに、地理的な情報ばかりで歴史を忘れていた、というので調べてみました。
今日のリンク「沖縄歴史編」2022/06/02
これの続きです。
以下の文献で、琉球(沖縄)の食人の話が何度も出てくるが、この記事ではそれには触れない。
重要なのは、琉球(沖縄)が世界の歴史に現れるのは、636年という7世紀の新しい時代であって、邪馬臺國の3世紀、それ以前の紀元1世紀(AD57)年頃の後漢時代、三国志時代の歴史には現れていないことである。
この頃の琉球(沖縄)は、後期石器時代、土器時代、稲作などが並行していた時代だったと想像される。
7世紀以前に琉球(沖縄)を経由して中国に向かう航路は、島民が攻撃的であって、行われていなかった、という仮説が重要である。
つまり、倭国、卑弥呼の時代では、せいぜい奄美大島以東の離島沿いから中国に渡った、奄美大島以西の沖縄列島は経由地として使えなかったということを言いたい。
『隋書』にみえる流求国
流求の名があらわれる最古の文献史料は『隋書』である。『隋書』の帝紀・列伝は唐の貞観一〇(六三六)年魏徴の主編により成り、志は顕慶元(六五六)年長孫無忌が監修して成った。
流求についての記事は、煬帝紀上(巻三・帝紀第三、大業三年三月癸丑条・大業六年二月乙巳条)、食貨志(巻二四・志第一九、煬帝即位条)、陳稜伝(巻六四・列伝第二九)、流求国伝(巻八一・列伝第四六・東夷)の四ヵ所にみえる。
『隋書』流求国伝は、「流求国は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」という方位・行程記事ではじまる。
わが国においては、この琉求とは、流球国最初の歴史書『中山世鑑』(羽地朝秀、慶安三年・一六五〇)をはじめとして、琉球(現在の沖縄)であると考えられ、誰もこれを疑うことはなかった。
ところが、明治七(一八七四)年フランス人サン・デニーが、『文献通考』(元・馬端臨、延祐四年・一三一七)四裔考の一部を翻訳し、その琉球条を根拠にして、隋代の流求とは台湾・琉球を含む島彙の総称であるが、『隋書』の流求は台湾であるという説を発表し、流求=沖縄という通念はゆらぎはじめた。
ついで、明治二八(一八九五)年オランダ人グスタフ・シュレーゲルは、元代以前の琉球は今の台湾に限り、明(みん)初にはじめてその名がいまの琉球に遷ったという説を発表した。そして、明治三〇(一八九七)年文科大学(現在の東京大学)史学科教授ドイツ人ルードヴィヒ・リースが『台湾島史』(吉国藤吉訳、一八九八)を著わし、サン・デニーの説を踏襲して以来、わが国の学会においては、流求=台湾説が定説の地位を獲得した。
済州島、耽牟羅国、沖縄、琉球国
流求国は、隋の不法な侵略にたいして国交を絶ち、唐とも公式の国交を開いていない。しかし、流求と唐との間に交渉はあった。
『送鄭尚書序』(唐・韓[兪/心]、大暦三年~長慶四年・七六八~八二四、明『朱文公校昌黎先生集』巻二一所収)には、流求など海外雑国が広州に通商に来る、『嶺南節度使饗軍堂記』(唐・柳宗元、大暦八年~元和一四年・七七三~八一九、『柳河東集』巻第二六所収)には、流求(如)貿易は広州押蕃船使の統を受けていた、とある。
沖縄には、縄文時代早期から九州系の土器文化が、つぎつぎと南下し押寄せてきている。
縄文晩期には、沖縄に佐賀県腰岳産の黒曜石がもたらされ 、北九州では貝製腕輪が使用されるようになる。
そして、最近では、沖縄の貝塚時代後期初頭の遺跡からは、移入された弥生式土器の出土が相次ぎ、同時に鉄斧や砥石・箱式石棺墓といった弥生文化を特徴づける文物が確認されるなど、弥生文化の定着を証す資料が多い。弥生時代の北九州には、沖縄産のゴホウラ製貝輪 が大量に送り込まれているが、鉄と交換したのではあるまいか。
有史以前の沖縄
有史以前の沖縄1967年の冬、沖縄本島の南部、具志頭村港川で崖の裂け目から数人の男女の人骨が発見されました。 これが、後に1万8千年くらい前のものとわかり、現在、港川人として有名になっています。 身長は皆低く、男性で155センチくらいでした。
これとは別に、那覇市内の洞窟から3万以上昔のものと思われる、女の子の人骨も発見されています。これらのことから、かなり昔から今の沖縄に人々が生活していた事は間違いないでしょう。
定説では、約2万年くらい以前には大陸と沖縄近辺は陸続きだったと言われていますが、その時期は海底遺跡などの調査が進めば変わってくるはずで、より人々が沖縄にきた経路がはっきりするでしょう。
沖縄の言伝えでは本島南部の久高島に、アマミキヨ(アマミク)と言う始祖にあたる神様が渡来して稲作等の文化をもたらしたとされ、後に玉城に渡り本島各地に足跡を残して、中部の浜比嘉島にお墓といわれるものが残っています。セーファーウタキ・斎場御嶽 久高島は現在でも沖縄発祥の地とされていて、神聖な神の島として特別視されています。この島は、イザイホーと言われる12年に一度の神事でも有名です。
一万年以上前の琉球弧見取図又、北部の古宇利島には、アダムとイブの伝承に似た言伝えも残っていて、非常に興味深いものがあります。
そのほかにも事実かは疑問ですが、実際の確認されている王朝以前に、アマミクの子孫である天帝という王族が、何代か続いて沖縄を統治していたような記述のある歴史書も残っています。
私の知っている限りでは、沖縄が他の国の歴史に登場したのが西暦610年、隋の役人が探検に来て帰国後に報告したのが最初です。
そんなわけで最初に朝廷に届いた内容は、「流求は食人国」であると言うようなものでした。 ここで言われている流求という国名が現在の沖縄を指すものか、それ以外の地域を指すものかにも諸説があり、確定的ではありません。
沖縄と大和の関係
お話は699年に飛びますが、続日本書紀に種子島、屋久島、奄美、徳之島から朝廷に献上品があった事が記載されていますが、 別の記録に618年流求人約30人が大和に帰化したとの書かれており、大和朝廷との文化交流は有ったものと思われます。
720年頃には大和朝廷が南島(沖縄)人に位を授けたとの記録もあり、753年には、遣唐使の船が沖縄に漂着し、阿兒奈波と言う名前が始めて大和の国史に登場しました。後に、遣唐使船は何度も沖縄に漂着したようで、交流も深まっていきました。
894年に遣唐使が廃止され、日本の国内は武士の台頭でとても沖縄どころではなく、日本と沖縄は100年くらい交流が閉ざされていたと考えられます。
この頃に日本語と元(日本祖語)を同じくする琉球語が確立されたものと考えられ、今でもその当時の大和言葉の子音、漢字の読みがウチナー口に残っています。(小・グァー、東風・コチ、北・ニシ、南・ハエ など)
さて、遣唐使が廃止されて以来、日本国内では1156年の保元、平治の乱まで戦乱が耐えない時代が続きました。 この乱で敗れた源為朝が沖縄の今帰仁に上陸して、南部にある大里の按司の妹と結ばれ、一子をもうけてから伊豆大島に帰っていったとの言い伝えがあります。 出典は中山世艦(1650年向象賢著)です。
中山世艦外観真偽の程は定かではありませんが、その子供の名前が尊敦といい、成長してから15歳で浦添の按司となり、その6年後に天孫氏25世の尚寧王を謀殺した逆臣の利勇を討ち、周囲から押されて浦添で王位についたのは、源頼朝が征夷大将軍となる5年位前のことでした。
瞬天王統
1187年、彼は名前を舜天とし、琉球史にはっきりと残る最初の王統舜天王統の第一代目となったのです。
ここで「じゃあ、天孫氏25世の王っ家臣達は天孫氏の末裔で、母親が太陽を宿す夢を見て懐妊したといわれ、幼い時にはテダコ(太陽の子供)と呼ばれた英祖を推しました。 彼が摂政になって数年のうちに災厄は無くなり民心も彼を慕うようになると、義本王は自ら王位を彼に譲り、城を抜け出して一人で立ち去りました。 これが義本54歳の時です。
琉球の「食人」風聞の歴史的構造、弘末 雅士:天理大学国際文化学部
東南アジア島嶼部の歴史を専門とする筆者は、北スマトラやニコバル・アンダマン諸島、ニアス島、ケダー、カリマンタン、モルッカ諸島など、交易上貴重な産品を産出したりあるいは東西交易路の要衝であった地に、しばしば古くから「食人」の風聞が存在したことに注目している。
「食人」風聞は、自文化と異文化とを分化する際の重要なメルクマールとなるばかりでなく、誰がその風聞を流布させたのかを考察することで、そこでの交易活動のあり方に、貴重なデータを提供してくれる。
この意味で、琉球の「食人」風聞も興味深い事例を提示してくれているように思われる。
琉球の「食人」風聞は、7世紀の『隋書流求伝』に登場して以降、13 世紀までしばしば中国側、日本側の文献に登場した。
この「流求」が今日の沖縄かあるいは台湾であるかをめぐり論議されたことがあるが、日本側には9~14世紀始めにおいて南島に「人喰い」が居住するという一般的イメージが存在していた。
筆者は、「食人」が実際に慣行として存在したのかどうかには、直接的関心を払わない。多くが風聞で実証が困難であるし、「人喰い」風聞が存在したという事実の方が、より重要であると考えるからである。
そして14世紀後半になり、琉球の王国が明朝に朝貢し始め、自らが海洋王国を自認し東南アジアや東アジアとを介在する役割を果たし始めると、「食人」風聞は消滅する。
7~13 世紀の間の沖縄は、日本や中国からは異域とみなされていたが、日本や中国との交渉がほとんどなかったことを意味するわけではない。むしろ日本と中国、あるいは東南アジアと東アジアとを介在する地としての役割が生じ始めた時期である。
『日本書紀』『続日本紀』によれば、7・8世紀頃に琉球の一部を含む九州以南の島々の住民がヤマト国家に挨拶にやって来ている。また遣唐使もしばしば九州以南の島々に漂着した。
12世紀以降南宋の時代になると、東シナ海の海洋交易活動は一層活発となるとともに、中国人商人が南シナ海やインド洋にも赴くようになり、琉球に立ち寄った商人数は増加したことが容易に推測される。
沖縄は11~13 世紀には、グスク時代とよばれる水田耕作が普及し始め、交易も活発となり、権力者が出現する時代を迎えている。
12~13 世紀に東アジア海域世界において中継地として重要な役割を果たし始めていた琉球に対し、むしろ日本人は「人喰い」島のイメージをいだき続けていたといえる。
沖縄は食糧を供給でき、また造船用建材となる木材を産し、金、銀、銅そして硫黄を豊富に産する日本と近接し、かつ東アジアと東南アジアとを介在しうる位置にあった。
日宋間、日元間のあるいは東アジアと東南アジアとの間の貿易を支配的に司っていた中国人を主とする私貿易商人にとり、重要な中継地となりつつあった琉球は、日本人や他の外国人商人を介在させたくない地であった。
「食人」風聞はこのコンテクストにおいて、重要な役割を果たす。
1243年に五島から船出して宋をめざした船が、琉球国に漂着して、食人されるかもしれぬ恐怖を記した『漂到流球国記』や、商人が訪れないとされた黄金の島チパング諸島で食人が一般的に行われていることを記したマルコ・ポーロの『東方見聞録』を読むとき、こうしたイメージ作りがきわめて効果的になされていたことがわかる。
「食人」風聞は、決して交易活動が無秩序で行えない状態を示したものではない。むしろ、現地人と一部の人々との独占的関係が形成されていることを示す場合が多い。琉球の「食人」風聞もこの点で、きわめて興味深い事例を提示してくれているように思われるのである。
マガジン『エレーナ少佐のサドガシマ作戦』
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参照:フランク・ロイドのマガジン
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