さいきんの美/自意識
あまりにも遅いけれど、あけましておめでとうございます。2020年は激動の一年でしたね。今年も生き抜きましょう。
最近、noteをぜんぜん書いていませんでした。短歌はちょくちょく書いてたよ!最近は、演劇と人の距離感が大きく離れてしまったイマ、をテーマに連作を書きました。去年は全く予想もしない形で、多くの人々と演劇、もしくはアートとの距離感が大きく開いてしまいましたね。そんな人々のやるせなさに思いを馳せながら、そして自分がほんとうに演劇を好きだったことを思い出しながら丁寧に書きました。まだ発表はしないけれど、その中の一首だけを紹介します。全文はその時が来たらぜひ、読んでくださいね。
まだたまに緑に光る奥の奥の蓄光テープを抉って剥がす
『カプセル』/椛美
さてさて、今日は、あんまり演劇とは関係がない?ちょっと関係がある?お話。
最近、人生がかなり楽しい。「この楽しさはいつかは終わる、だからこそ楽しい」みたいな悪い感じの刹那的高揚感じゃなくて、内側からじわっとしみ出る幸福感。このコロナ禍なのに、変なの。収入は7割減だけど、色々大変だけど、でも、そこはかとなく楽しい。なにかのタイミングでぷつっと切れてしまいそうなよわい幸せだけど、ずーっと続きそうな気もする。
このだらっとした幸せの理由は、いくつかあります。まず、コロナ禍であること。なんで?って感じだけど、コロナ禍で「みんな苦しい」「みんなつらい」という状況になったことによって、「つらくても仕方ないよね」とか、「つらい、つらい」ってみんなで言い合えるようになりました。それが良かった。
それから、最も大きな理由は「あまり自分の容姿で悩まなくなった」からです。これについて、今回は書いていきたい!
いまから2年半前、まだ21歳だったとき、わたしはこんな記事を書きました。一番演劇が好きで、傾倒していた頃。
まあみんなそうだと思うけど、美しくなりたいでしょう。美しくなりたい。とりあえずわたしは美しくなりたい。なりたいというより、美しくありたい。
美しく生きるのに、持って生まれた自分の顔や身体が邪魔。という話をします。
『美/自意識』
そう始まるこのnoteには、当時のわたしの「自分の持って生まれた美しさの量」が、「求める美しさの量」より足りなすぎる、それが苦しい、ということについて書かれています。今読んでも悲しい。正直まだこう思っているふしがある。
でも、あるよね、そういうこと。自分の好みの芸能人の顔にはどう頑張ってもなれない。小松菜奈にはなれない。吉沢亮にもなれない。あどけなさが残る頃の藤原竜也少年のような切れそうな美しさを持つことはできない。
わたしは、演劇で役者や脚本・演出をしていて、そのつながりでポートレート写真を撮ることも多く、自分の顔・身体・演技・表情というものをある意味価値のあるものとして見せる機会が多いと感じています。
そんな中で、こう思われているんだろうな、というのが、『どうせあなたは自分のことを美人だと思っているんでしょ?』というもの。
半分正解、半分誤解。
鏡がない限り、自分の顔を日常で自分で見ることはできないですよね。そんな時、わたしは自分を美化している気がします。だって自分の顔、見えてないし。だから、演技をしているその瞬間や、写真を撮ってもらっているその瞬間、もしくは普通に生活している瞬間、わたしはわたしの顔を本物のわたし以上だと錯覚しているような気がします。
でも、ひとたび演技が終わって記録映像を見たり、出来上がった写真を見たり、もしくは普通に友達と遊んでて撮った写真を見たり、鏡を見たりすると、めっちゃ思います。わたし全然美しくないやん、って。自分の顔が見えてないときの自分の顔を、もっと美しく認識してたわ!って。
これみんなそうなんですかね。
これが、2年半前のわたしの本音。自分のことを見ていない間、意識していない間は「70点のオンナのふるまい」しちゃってるけど、鏡みたらワーオ2点でした、という毎日を過ごしていました。
当時、わたしは演劇の場において雰囲気的に大人っぽいお姉さん、とか、可愛い女の子、というようなどうしても見目の良さを要請される役をすることが多かった(というより、演劇やドラマの登場人物っておおむね美化・デフォルメされるもんね)と思います。
でも、実際のわたしは美しくないじゃん?!でも舞台は構わずやってくるじゃん?!舞台上でわたしはひたすら「美しいふり」をしなきゃいけないじゃん!!!でも写真や鏡にうつるわたしはどう考えても美しくないじゃん!!!!!……と、とにかく自分の容姿に落ち込んでいました。
カメラ好きの友だちにポートレートを撮ってもらって、写真をSNSに上げることもありました。だけどある時友だちに、あなたって自分の顔がはっきり写っている写真を上げないよね、と指摘を受けました。たしかにそう!!!!自分の顔をはっきり直視するのが本当にいや。「2点」の自分を思い出すことがいや。そして、演劇やポートレートをやり続ける限り、70点のオンナとして演技してたのに、本当は2点の自分だったということを思い出す機会は日に何十回もやって来るのでした。
だから今、最近自分の容姿で悩んでないな、と思うのは、単純に演劇やポートレートをしていた頃よりも「2点」の自分を思い出す機会が減っているだけかもしれません。根本的な「わたしが持つ美しさの量」は、結局わたしの求める美しさ、には足りないままです。
でも本当に最近楽になったの!自分のことを「まあ、こういう感じの美しい、もあるよな……」って思うようになったの!自分のことを絶対評価で「21の時と比べたら美しくなった」と思える!!!若さじゃないところで美しさを蓄えられてる気がする!!!分かんないけどね!見る人が見たら全然違うかもしれないけどね!21の時のほうがカワイかったって言われるかもしれないけどね!!!!(批判されたくないので保険をかけまくる)
実際に写真をみると、わたしは、やっぱり肌が汚いし、目が小さいし、目の位置が上すぎるし、(中略)、歯並び悪いし、
せっかく綺麗な衣装を着せてもらってきちんと化粧をしたつもりで、舞台上でいい女みたいな役をやって、その時は自分をそういうことをするのが見合う女性だと思っていても、ひとたび写真を見ると落ち込んでしまいます。全然合ってないやん、って。あと、動画もそう。もっと綺麗に歩いているつもりなのに、どうにも不恰好な歩き方しかできないし、腕の上げ方、ダンスの仕方ひとつとってもまったく美しくなさすぎてへこんでしまいます。演技も下手だし。
自分の外側のなにもかもがいやだった。朝起きたらまったく違う顔がすげ替えられていたらいいのに、と思っていた。今もたまにそう思うし、できることなら明日の朝沢尻エリカの顔で起きたい。それは変わらない。今だって、相対的な美しさへの執念を持ちきれないくらい抱えている。
でも、楽になった。まだまだ肌荒れは治療中だし、歯も治療中だし、なんなら前より太ったし、顔の骨格も目の大きさも全然変わってないし、メイクはシーズンごとに迷走するし、顔がはっきり写る写真は載せないし、足もべつに長くはならないけど、
以前と比べれば肌は飛躍的に綺麗になったし、そんなに足は短くないかもしれない……と思い始めたし(短いけど)、目の大きさも位置もメイクでごまかせてるような気もするし(やっぱ目は小さいけど)、髪も染めてみたりしてるし(やっぱボサボサかもだけど)……、今書いてみて思ったけど、今はひとつひとつのパーツをじっと見て「綺麗……醜い……」とか思うことが無くなったな。全体を見て「どこがイイとは言えないけどなんか今日調子いいかも」みたいな、根拠の無い自信が出てきたな。これなんで?!なんか、もう理由がわかんなくなってきた。最近容姿に悩んでないのはこういう理由です!!!やったね!!!!で締めようと思ってたのに!!!!これじゃ結局気の持ちようが大切ってことになってしまう!!!!!
でも結局、そうなんだろう。誰かと自分を比べることなく、自分、なんかイイじゃん!って思えたら勝ちなんだろう。そしてこれは美醜の問題じゃなくて人生のあらゆる問題について言えることなんだろう。いま、わたしは心が穏やかだから、それができているってだけで、そしてこれから色んなことが起きて「やっぱり自分嫌いだ……」っていう時期に差し掛かったら、自分の価値を自分で認めてあげなくちゃいけない。
自意識と美意識の乖離問題。根本的な解決には至りませんでした。ごめんなさい。でも、わたしは今自分の顔がわりかしスキ。自分の脚もスキ。メイクをするのもスキ。スキンケアを頑張るのがスキ。まつげ美容液にハマってます。あとクラランスのリップ。美容のために野菜もりもり食べたり、自炊したりする気力もある。この穏やかな幸福感がもう少し続いてほしい。ただそれだけ。収入は1/3だけど。コロナ禍を生き抜いていこうね。今年もたくさんお会いしましょう。
降って湧いた冷凍都市を駆けながらまだドッキリを疑っている
『カプセル』/椛美
追伸 昔の自分の文章読むのすこし恥ずかしい
使途不明金にします