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Hvor sødt i sommeraftenstunden【C.Nielsen】《私的北欧音楽館》
YouTubeで、新しい再生リストを公開しました。
ニールセン (C.Nielsen) 作曲
Hvor sødt i sommeraftenstunden (CNW215 /1916年)
A. Oehlenschläger 作詞 “Aften - Sang”
なんと甘美な、夏の夕暮れ時は
以前の記事で紹介した、Nu lyser løv i lunde は、「夏至にむかって白く強くのぼりつめていく夏」の歌で、夏至が過ぎて梅雨が明けるとぴたっと歌う気がわかなくなる梅雨時限定ソングでしたが……
梅雨が明けて、8月になると歌いたくなるのが、この Hvor sødt i sommeraftenstunden です。この歌は、いうなれば夕焼けのもっとも美しい月、日本なら8月の歌、「衰微しながら、実る稲穂の色にそまってゆく夏」の歌になります。
え、でももう9月だよッ!……ていう貴重なつっこみくれたひと、ありがとう。ほんとに、あと数日もしたら完全に秋になってこの歌の賞味期限が完全に切れるよ~、とあせりながら記事を仕上げました。
やっぱ、夏休み中は子どもが家でごろごろしているので、そっちに神経をとられて、毎年な~んにも手がつけられなくなります。ただでさえうつでできなくなってる家事も、ほぼストップです。書きたい気持ちがあっても、学校が始まって、ひとりになれるまで着手できませんでした。
うつになった最初の年は、「子どもが家にいる」ということ自体が精神的な負担になっていることがわからなくて、なんでこんなに調子が落ちたのか、罪悪感を感じながらもがいてました。が、夏、冬、春、と長期休みを経験するたびに、「子どもがおりこーでも、家にいるだけで気がやすまらず、メンタルには負担」ということがわかってきました。
コロナ休校中に、子どもといっしょに在宅勤務していたみなさんのこと、こころから尊敬します。仕事に集中しにくい環境下であったにもかかわらず、社会的な責務を果たしてくれてありがとう、と今さらですが、感謝の拍手をおくります。
それはさておき。本文にもどります。
デンマーク語って、「なんだこの手抜きのように短い単語はッ!」とソッコーでツッコミたくなる単語が多い一方で、「長すぎて読み方がわかんない、ていうか読みたくないし意味不明」とばかりに、いきなり拒否反応がでてしまう単語もしばしば出てきます。sommeraftenstunden もそんな見ただけで、ウゲッ……となった単語のひとつです。
ただ、わけがわからないながらも何年かつきあってくると、「長いのは単に単語をつらつらくっつけてるだけだから」ということがわかってきました。つまり、単語力さえつけばどうにかなる、ということです。で、
sommer …夏
+ aften …夕方から夜にかけて
+ stunden …(Google翻訳によると)瞬間
= sommeraftenstunden …夏の夕べのひととき?かな……
みたいな感じです。でもって、
hvor = 英語の how sødt = 英語の sweet i = 英語の in
なので、タイトルの Hvor sødt i sommeraftenstunden は、「なんと甘美な、夏の夕暮れ時は」とでも訳したらよさそうです。
・◇・◇・◇・
で、ですね。
aften というのは英語では evening にあたるのですが、この単語が指している時間帯は日本語の「夕方」よりもさらにひろいらしく、ニールセンの歌の歌詞を解釈するときに、さんざんてこずらされてきました。
たとえば、Aftenstemningという歌、
Aftenstemning = Aften + stemning (単語の足し算でた!)で、一般的には「夕べの趣」と訳されています。「夕べ」だから、日没前後の情景の歌……かと思えば、そうじゃないんですね、これが。
歌詞を見ると、冒頭からいきなり
Alt Skoven sig fordunkler,
den gyldne Stjerne funkler
※ skoven = 森 stjerne = 星
「森全体が暗くなり、金の星が輝く」みたいなはじまりかたするんです。描かれているのは、すっかりと日の沈んだ、おそらく残照も見えない、星のまたたく完全な夜空です。
そして2番の冒頭は、
Hvor roligt Jorden hviler
bag Nattens Slør og smiler
※ jorden = earth natten = night
「なんてしずかなんだろう。大地は夜のとばりの後ろで休息し、ほほえんでいる」という感じなのですが、いつのまにやら時間帯が aften から nat に移りかわってます。そして、歌の最終行では、
forglemmes skal i Søvnens Arm.
※ skal = shall
「眠りのうでのなかで(昼間の憂いを)忘れるだろう」と、人間もやすらかに就寝です。
つまり、「日が沈んですっかり星空がひろがってからの~就寝するまで」がこの歌に流れている時間なわけです。
だから、タイトルが「夕べの趣」なのは誤解の素で、空が暗くなっていることがちゃんと伝わるように訳したほうがいい……でも、なかなかいい言葉がみつからないんですよね。
もうひとつ、タイトルに aften がつくのが、
この I aften 。
まちがいなく、ニールセンの「芸術としての歌」のなかではこれが最高傑作だと思います。さらにいうと、デンマークの国民的テノール、Aksel Schiøtz の録音は、圧巻です。
i aften という表現自体は、英語の this evening にあたることばで、「今晩、食事にでも行こうよ!」みたいなときの「今晩」の意味になります。
この歌の aften は、こうです。
Det gyldenhvide Himmellys.
De tavse, sorte Skove,
※ gyldenhvide = gylden + hvide
Himmellys = Himmel + lys
デンマーク語を覚えるときに、英語やドイツ語と関連させると覚えやすいのですが、hvide が英語の white なのはちょっとつながりにくいです。ドイツ語でも weiß なので、hvide だけが字面が違いすぎです。
《hv → 英語の wh》という法則をふまえて、かつ、d → t はタ行つながりだし、と推測すると、まあ、なんとなく、仲間同士かなぁ、というような気はしてきますが……
日本語にすると、「黄金色で白い空の光、静かで黒い森」という感じでしょうか(ここでも単語がガンガン足し算されてます)。おそらく、太陽自身は姿を隠している、だけど、天にははまだ金のような白のような不思議な明るみが残っている曖昧な時刻。だけどその明るみもまもなく消える……ことが想像されます。森が静かなのは、鳥ももう眠っているし、風もない、ということなのでしょう。
詩句のデンマーク語からしてすでにただよう厳粛さに、項垂れつつ逍遙したゆたうかのようなニールセンのメロディがかけあわされると、立ち現れる世界観がすごすぎて、この一節だけで身震いがきます。凄絶という言葉は、こんなときにつかうんじゃないか、というくらいに、です。
メロディは潮が引くように時刻が暮れていくことを示すと同時に、胸裏の焦燥のようなものはぐっと圧を高めていることを示し、クライマックスではこう歌います。
I Aften var det godt, min Sjæl,
at staa mod Dødens Strande!
※ var = er の過去形。英語の was
godt = 英語の good
min Sjæl = 英語の my soul
この夕べは、わが魂よ、死の岸辺と対峙し立ちて、よかった。
まだ文法があいまいなので自信がもてませんが、こんな訳になるかと思います。
I aften も Aftenstemning も、同じように aften と表現されていますが、時間の経過は、
日没 → 日没直後の I aften →
すっかり暗くなって Aftenstemning の1番 → 同2番 → 就寝
となっています。
aften と nat の境目は、あえていうなら、就寝の前後、のようです。
・◇・◇・◇・
そして、今回の Hvor sødt i sommeraftenstunden です。
あ、どうでもいい情報ですが、最近は文中のデンマーク語は、コピペでなく極力逐一手打ちでがんばっています。慣れるために、というのもありますが、手打ちしてもいいや、と思えるくらいデンマーク語に慣れてきた、というのもあります。また、うつが改善してきて、多少は集中力が回復してきたのもあります。
辞書無し、Google翻訳のみが頼り、というなかなかに心細い勉強方でやってきましたが、それでも続けたらなんらかの成果って、出るもんです。
冒頭で、Hvor sødt i sommeraftenstunden と歌ったあとにこう続きます。
Naar Solen mat til Hvile gaaer,
※ solen = 太陽 hvile = 休息
(Aftenstemning では hvilerで出てました)
よっしゃーッ!
ついに夕陽キタ━(゚∀゚)━!
お待たせしました。
やっと、日本語の「夕方」らしい言葉がでてきましたよーッ!
しかも、mat という言葉は、「マットな質感」というときとだいたい意味は同じようで、「生気がなく弱っている」とか「鮮やかさがなく鈍い」というような意味合いのようです。
さらにあとに続く歌詞をみると、aftenrøden、ズバリ「夕焼け」という単語も出てきます。
うまくまとめながら訳すのはちょっとむつかしいのですが、西の空の、ずいぶんと高度の低くなった太陽が、光をよわめながらじりじりと、しかし加速度的に地平線へと接近している様子が見えてきます。空全体は、金から茜色、紫へと刻々と色をかえています。
デンマークは平坦なので、地平線ぎりぎりの、いまにも落下する線香花火の火玉のような真っ赤な夕陽が内陸部でもみられるのかな?……そんなことも、ちょっと気になったりします。
8月にはいって、だいたい午後3時を過ぎて、くっそ暑い日盛りから日が傾いて、多少かげってきた、いきおいが弱まってきてすこしは過ごしやすくなってきたかな?……と、感じる時間あたりから歌いたくなってきます。
なんというか、太陽が「今日の夕焼け」モードにはいったな、と察しがつくような時間からです。
ちなみに9月である今、日中は「猛暑よりはマシ」な暑さになり、朝夕はそれなりに秋っぽくなってきました。むしろ朝の9時前後の日差し方が、夏の午後の日差しの名残感があるので、つい「Hvor sødt i sommeraftenstunden ……♪」と歌ってしまいます。
が、まあ、そろそろこの歌も店じまいですね。来年の8月まで、おやすみなさい。
・◇・◇・◇・
ということで、タイトルに aften のつく歌を太陽の動きにそって時系列でならべるとこうなります。
日没直前の Hvor sødt i sommeraftenstunden
→ 日没 → 日没直後の I aften
→ すっかり暗くなって Aftenstemning の1番 → 同2番
→ 就寝 ……就寝前後から、nat の時間帯
いや、そんな情報べつにいらんやろ!、といわれたらそれまでなのですが……
だけど、「夕焼けこやけ」とか「赤とんぼ」とか「夕日がせなかをおしてくる」とか、子どものころから夕方の歌はずいぶんと歌ってきたけど、
夕方、って歌ってるけど、いったい何時頃の歌?
そのときの太陽の傾きぐあいはどうよ?
空の色味はどんな感じよ?
みたいな、理科的な視点からみてどうなのか、ってことを追求したくなる歌って、出会ったことがないし、歌自体に「そこまで解明しろ!」と要求されたこともないです。それぞれの歌を時系列でならべてみよう、という気持ちもおこりません。
だけど、ニールセンは、
私の歌をきちんと歌いたいの?
じゃ、まずは、その目で自然を観察して。
そして、ありのままの自然を歌で描いて!
と、要求してくる……ていうか、もう自然とそうしたくなる。
それは、ニールセン自身が、「都会人のファンタジーである、癒しの理想形としての自然」ではなく、「田舎で自分を育ててくれた、生命の束としての自然」を自然科学者の目でみつめながら作曲しているから、といいきってよいと思います。
こんなふうな感じでニールセンの歌をきちんと知り、解釈しようとすると、最近は昆虫学者のファーブルが頭のなかでちらちらします。
科学者としての観察から見いだした昆虫たちの暮らしのロマンを物語ったのが「ファーブル昆虫記」だと思うのですが、ニールセンもまた、自然に対する人間の思い込みや、こうだったらいいのに的な幻想を排し、それでも残る「そもそも生命そのものがきらきらしているじゃないか!」という、ものの見方が科学的だからこそ浮き彫りになるロマンを音楽で描いているのではないか。それも、いささかの装飾もなく、もののかたちそのものをなぞるように作曲していたのではないか。
牧野富太郎の植物画もそうですよね。そもそもが研究や図鑑のための絵だから、強調も省略もなく、植物学的に非の打ち所なく特徴を移し取っている一方で、科学的な描写であるからこそ、生命体としての美しさ、躍動を「芸術」よりも見事に紙の上に再現できている。
牧野富太郎の絵は小学校のときから大好きで、ニールセンは中学校にあがってからドはまりしたのですが、40歳過ぎてから、このふたりにはちゃんと共通点があった、と気がつくなんて。「なんかしらんけど、好き!」という感情は、バカにできないもんです。
それに、ニールセンが歌をとどかせようとしていたのは、昼間は工場や畑で汗水垂らしてはたらく、まったくふつうのおじさんおばさんとその子どもたち、そして、ふつうのひととして生きてきて人生のたそがれをむかえた老人たちです。芸術とは縁のうすい世界で生きているこの人たちに、「この自然の描写はウソ」と見破られたら、「作品」はみむきもされなくなってしまう。
これではいくら、「芸術である。えらいだろ」とふんぞりかえってみたところで、裸の王様です。
そればかりでなく、ニールセン自身が、既存の文学や音楽の描写のなかに「この自然の描写はウソ」というのをついつい発見してしまって、もううんざりしていたんじゃないか。
だからもしニールセンのまえで「梅の小枝でウグイスが~♪」なんて歌おうものなら、「いや、それは絶対ないし。あれはメジロだし」と歌詞を修正したうえで新しいメロディをつけて発表しちゃいそうです。
どうしてもGoogle翻訳経由の情報になるので、断片的なことしかわからないのですが、ニールセンにとって、同時代の音楽である後期ロマン派は、「打倒すべき敵」だったようです。それは、音楽的に路線がちがうから、というのもありつつ、「ロマン = こうだったらいいのにな、という思い込み」にもとづいて作曲されているのが我慢ならなかったんじゃないか、と最近は感じています。
たとえばですね……後期ロマン派とは時代はちがいますが、ベートーベンの交響曲 第6番「田園」。あれは「田舎に癒しを求める都会人の視点から描かれた田舎」だし、そういうふうに聴こえる演奏のほうが多いです。だから、タイトルは「田舎」ではなく、あくまでも「田園」……みたいな。
それに対して、ニールセンの交響曲 第3番は、タイトルこそは「エスパンシーヴァ」と抽象的ですが、描かれているのはあきらかに「農民」です。「田園」などというなよなよとしたタイトルをはねつけてしまうくらい、力強く、完膚なきまでに「田舎」です。
なので、「エスパンシーヴァ」を使えば、サイコーのJAのCMが作れるはず、というのが、私のかねてからの持論です。
とくに第4楽章なんか、一面にずっしり実った田んぼと、実りへの感謝と、いまから一年の農作業の集大成な稲刈りへの胸の高ぶりと、高く晴れた青空しか見えない……とくに、4:13からの拡大された主題!これはもう、日本の実りの秋景色そのもの!
……てなふうに、最近は始終こんなことを考えているので、先日もEテレで、サン・サーンスの「動物の謝肉祭」を聴きながら、「動物としての描写はきれいでも、生物としてのリアリティはないよな……」なんて感想を抱くようになってしまって……それはそれで、みもふたもないなぁ……と、ちょっとだけしょぼん、となっちゃったりするんですけどね。
・◇・◇・◇・
ほんとは、音楽自体から発見したこともしっかりと書きたかったのですが、力つきたので、今回はこのへんでおしまいにします。
ですが、せっかくなので、タイトルに「nat = 夜」のつく歌もすこしだけ。
これは、Lær mig nattens stjerne……「おしえて、よるのお星さま!」と、子ども(たぶん)がよびかける歌。
日本語でも、夜と宵と晩の使い分けって、はっきりとはわかりませんが、デンマーク語でも、aften と nat のちがいって、どこかあいまいなところはあるんだろうと思います。でも、あえて「nat は就寝前後から夜明け前まで」とすると、夜中にトイレに起きた子どもが、寝ぼけながら夜空を見あげてお星様に話しかけてる……ような情景がうかびます。
ニールセンが生きていた当時、デンマークでも田舎のトイレは外にあったでしょうか?うちの親の田舎では、まだ外がふつうでした(親の実家はさいわいなことに同じ屋根の下でした。それでも、いったん土間に降りて靴をはいて別棟に行かないといけなかったから、暗くてこわかった)。
夜中のこわい外のトイレと満点の星、というギャップのある設定があるほうが、このかわいらしいメロディが、子どものリアルな生活を浮き彫りにしながら生きてくるような気がします。
そして、Tunge mørke natteskyer。
このリスト↑は、最初は公開する予定ではなかったので、整理が追い付いていません。
このリンクからのみ行ける、限定公開となっていることをご了承ください。
「重い闇の夜の雲」というタイトルどおり、短調の曲です。明るく前向きな曲のおおいニールセンでは、短調はほんとにめずらしい。
ひとの寝静まった真夜中にひっそりと目覚めて、終わりのない悩みをひとり思い悩んでいる様子がうかびます。いまは aften でなく nat である、ということが、ひしひしと伝わってきます。
aften の歌と nat の歌をならべたらどうだろう?というのは、この記事の締めとして、ほんとにほんの思いつきでやってみことなのですが、ここまできっちりと aften と natが音楽で書き分けられていたら、もう、ニールセン、音楽職人としてカッコよすぎ、としかいえません。
作曲家って、一般的には「芸術家」なのですが、ニールセンについてだけは、「音楽職人」であることが最高の誉め言葉であるような気がします……ていうかこのひとの作曲への態度は、ぜったい、職人気質です。
・◇・◇・◇・
いま、ちょっと考えがひろまったので、乗りかかった船で書きとめておきます。
京都の開化堂の茶筒がすごいのは、職人がかっちりと精度を出した仕事をしているからで、だからこそお客さんは、すうっと沈み込んでいく蓋の動きをみて「勝手に」感動してくれる。
牧野富太郎の植物画も、ネズミの毛3本を束ねた特注の極細面相筆を駆使して、複雑な葉脈や微細な産毛までもを写し取れる、絵描きとしての超絶的な技術力があったからこそで、だからこそ図鑑を開いた人が、「あ、なんてきれいな花!」と「勝手に」感動してくれる。
そこで起きていることは、野の花を見たら感動する、というごくあたりまえの現象で、なんの不思議もないのですが、その現象の引き金が実物の野の花でなく「野の花の似せ絵」である、というのはおそろしく非凡です。
そのうえ、それは、感動を引き起こすことを目的とした「作品」ではなく、心象を紙の上に描き移した「絵」でもなく、植物の外見についての情報伝達を目的とした「実用に徹した図」であることは、衝撃的です。
ニールセンについては、どうも、「この音形でひとの心を打つと、こころは、例えば aften の茜色や nat の圧倒的なしずけさを思い出す」という作用のコントロールが絶対的にうまかったのではないか。
聴衆の気を引いたり、感動をかきたてるために音を並べたてるのでなく、聴衆のこころが的確な画像を確実に思い出せるために、最適な音形を組み立てる。音楽が正しく組み立てられていたら、聴衆のこころにはニールセンの描きたかった画像が正しく呼び覚まされ、聴衆はこころのなかの画像を見て、やはり「勝手に」感動してくれる。
あるときから、「ふつうの作曲家は音楽を作っているけど、ニールセンのは音楽のふりをしたプログラムだよなぁ……」なんて、ばくぜんと考えてましたが、このひとはほんとに、人間の脳に入力する「音楽というプログラム」職人だった、と理解するのが的確なのかもしれません。
さらに、ニールセンが秀逸で、かつ、全くもって他の作曲家と異なるのは、ニールセンが音楽の力で聴衆のこころに呼び覚ます画像は、なにか芸術家の恣意的な造形物ではなく、普遍性に通じるものである、ということです。
その白眉が、歌劇「仮面舞踏会」の Jeronimus sang です。
この録音はアンコールかなにかで、女声のパートをファルセットが演じているようです……歌自体は6:58からはじまります。
また、この再生リストも、まだ未整理のため限定公開であることをご了承ください。
「仮面舞踏会 (Maskarade)」は、すでに婚約者も決まっている息子が「昨夜の仮面舞踏会で出会った人と結婚する!だから今夜も絶対的に仮面舞踏会に行く!」と目論んでいることが発覚したことをきっかけに起こる、ドタバタコメディーです(しかも、最終的に、その彼女こそが婚約者だった、と明らかになる、ベタベタなオチだし)。
で、この Jeronimus sang は、父 Jeronimus が息子の目論みを知り(↑では、Jeronimus が「静かにしなさい!(たぶん)」と声を荒らげていきなり登場します)、わたしも仮面舞踏会に行きたいわ、とはしゃぐ妻 Magdelone (↑ではファルセット)を凄んで黙らせ、息子 Leander (イケボのテノール)なんか瞬殺で沈黙だし、お調子者の息子のお供 Henrik (びびりまくっているバリトン。気の毒だけど面白いので笑ってしまう)を徹底的にとっちめて、全員その場から追い払ったあと……一人になって、昔はよかった、だの、近ごろの世の中は、だの愚痴をこぼす歌です。
デンマーク語がわからなくても雰囲気で楽しめるよう、歌の構成を解説しときます。
聴けばわかるとおり、起承転結の4つのフレーズで構成されています。
最初の起と、それを発展させた承は、「昔はよかった、こうこうこうだし……」という愚痴です。
コミカルな味わいの転の部分では、「まったくもっていまどきのヤツらは、○○でけしからん!」とでもいうように毒づき、最後の結で、「仮面舞踏会!仮面舞踏会!……古きよき秩序はおしまいだ」と嘆きます。
「昔はよかったのに、今どきは!」というオヤジの愚痴の構文が、そして、いまどきの世の中に文句を言い出したとたんに生き生きするオヤジの生態が、時代も国境も越えて同じなのがツボだし、Jeronimus パパさんがかわいくてたまんない。
あらためて解説してみると、この歌、「典型的な《愚痴るオヤジの生態》」で、ふつうなら観客の笑いをとるところですよね。それに対して揶揄ではなく、品格のあるメロディがついていて、かつ、このオペラを代表する歌になっているとは……もう、意表を突かれ過ぎ……
だけど、メロディは、愚痴の非建設さよりも「父は息子に世代を譲らねばならない」つまり「古いものは新しいものにとって変わられる」という普遍的なメッセージと、とってかわられるものにしかわからない、時のいたずらで否応なく古いものになっていく不条理感を私たちに伝えてくれます。
もしこの歌がなければ、Jeronimus はただの憎まれ役のうざい親父、第3幕では酔っぱらって醜態をさらすただの笑われ役です。この1曲で、ニールセンは Jeronimus を血のかよった等身大の人間にしました。憎まれるものも、笑われるものも、うざがられるものも、同じく人間であり、愛すべき存在であることをしめしました。
「普遍性」というのは、いうなれば「世界」を動かすプログラムです。「明けたら暮れる」「生まれたら生きて老いてやがて死ぬ」みたいな、おいそれとは動かせないプログラムです。
そのプログラムについて思いをめぐらせ、言葉で綴り、存在を明らかにするのが哲学者です。データを集めてプログラムを解析し、人間に分かりやすく組み立て直し、応用可能にするのが自然科学者です。職人は、たとえば「金属板は、たたけば延び、力を加えれば曲がる」という材料そのものに内在するプログラムを体で知悉し、プログラムにそって手を加え、形を整え、暮らしの役に立つものを作ります。
私は別の場所で、ニールセンは哲学者である、と書いたことがありますが、あるときはニールセンが哲学者に見え、職人に見え、自然科学者に見えるのは、なんのへんてつもないことで、ものごとの背後に「普遍性」というプログラムを見ようとするひとであったからこそ、あるときは哲学者であったり、自然科学者であったり、職人であったりするだけのことなのです。たぶん。
では音楽は。
ものごとの外側、手で触れ、目で見、耳で聞き、あるいは計測器でデータとして計測し、言葉として描写できるありとあらゆる外見を、捨象しても捨象してもなお残る、存在そのものの持つうねりのようなもの、それが「音楽」であり、ただ、私には「そこに音楽がある」「それが音楽である」ことまではわかっても、聞くことができません。
でも、おそらくニールセンにはそれが聞こえ、みずからの音楽として再構成することができた。みずからが目にしたデンマークの aften の景色から、aften が aften たる普遍性を「音楽」として聞き取り、再構成した歌だからこそ、受け取った者は同じ「音楽」が聞こえる情景を、記憶の中から、あるいは目の前の光景から探し出すことができるし、つい探したくなってしまう。
私がデンマークの歌を聞きながら日本の自然を思い浮かべ、日本の風景を目の当たりにしながらデンマークの歌を、あたかも自国の自然をうたった歌であるかのように歌えるのは、そういう仕組みなのだと思います。
・◇・◇・◇・
乗りかかった舟で書いたことがずいぶんと長くなってしまいましたが、なにがくやしいって、こんなことくらい、自分の脳みそさんはとっくに気がついていて、自分が「自分」に脳みそさんのわかっていることを理解させるために、一生懸命言葉に直して説明している……っていうのが、なんかもう、はがいくてはがいくてたまらない。もう、ふて寝してやる。
なにひとつ、新しく考えついたものなんてないです。ただ、説明されていなかっただけ、説明が追いついていなかっただけです。
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