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【新書が好き】さまよう死生観


1.前書き

「学び」とは、あくなき探究のプロセスです。

単なる知識の習得でなく、新しい知識を生み出す「発見と創造」こそ、本質なのだと考えられます。

そこで、2024年6月から100日間連続で、生きた知識の学びについて考えるために、古い知識観(知識のドネルケバブ・モデル)を脱却し、自ら学ぶ力を呼び起こすために、新書を学びの玄関ホールと位置づけて、活用してみたいと思います。

2.新書はこんな本です

新書とは、新書判の本のことであり、縦約17cm・横約11cmです。

大きさに、厳密な決まりはなくて、新書のレーベル毎に、サイズが少し違っています。

なお、広い意味でとらえると、

「新書判の本はすべて新書」

なのですが、一般的に、

「新書」

という場合は、教養書や実用書を含めたノンフィクションのものを指しており、 新書判の小説は、

「ノベルズ」

と呼んで区別されていますので、今回は、ノンフィクションの新書を対象にしています。

また、新書は、専門書に比べて、入門的な内容だということです。

そのため、ある分野について学びたいときに、

「ネット記事の次に読む」

くらいのポジションとして、うってつけな本です。

3.新書を活用するメリット

「何を使って学びを始めるか」という部分から自分で考え、学びを組み立てないといけない場面が出てきた場合、自分で学ぶ力を身につける上で、新書は、手がかりの1つになります。

現代であれば、多くの人は、取り合えず、SNSを含めたインターネットで、軽く検索してみることでしょう。

よほどマイナーな内容でない限り、ニュースやブログの記事など、何かしらの情報は手に入るはずです。

その情報が質・量共に、十分なのであれば、そこでストップしても、特に、問題はありません。

しかし、もしそれらの情報では、物足りない場合、次のステージとして、新書を手がかりにするのは、理にかなっています。

内容が難しすぎず、その上で、一定の纏まった知識を得られるからです。

ネット記事が、あるトピックや分野への

「扉」

だとすると、新書は、

「玄関ホール」

に当たります。

建物の中の雰囲気を、ざっとつかむことができるイメージです。

つまり、そのトピックや分野では、

どんな内容を扱っているのか?

どんなことが課題になっているのか?

という基本知識を、大まかに把握することができます。

新書で土台固めをしたら、更なるレベルアップを目指して、専門書や論文を読む等して、建物の奥や上の階に進んでみてください。

4.何かを学ぶときには新書から入らないとダメなのか

結論をいうと、新書じゃなくても問題ありません。

むしろ、新書だけに拘るのは、選択肢や視野を狭め、かえってマイナスになる可能性があります。

新書は、前述の通り、

「学びの玄関ホール」

として、心強い味方になってくれます、万能ではありません。

例えば、様々な出版社が新書のレーベルを持っており、毎月のように、バラエティ豊かなラインナップが出ていますが、それでも、

「自分が学びたい内容をちょうどよく扱った新書がない」

という場合が殆どだと思われます。

そのため、新書は、あくまでも、

「入門的な学習材料」

の1つであり、ほかのアイテムとの組み合わせが必要です。

他のアイテムの例としては、新書ではない本の中にも、初学者向けに、優しい説明で書かれたものがあります。

マンガでも構いません。

5.新書選びで大切なこと

読書というのは、本を選ぶところから始まっています。

新書についても同様です。

これは重要なので、強調しておきます。

もちろん、使える時間が限られている以上、全ての本をチェックするわけにはいきませんが、それでも、最低限、次の2つの点をクリアする本を選んでみて下さい。

①興味を持てること

②内容がわかること

6.温故知新の考え方が学びに深みを与えてくれる

「温故知新」の意味を、広辞苑で改めて調べてみると、次のように書かれています。

「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」

「温故知新」は、もともとは、孔子の言葉であり、

「過去の歴史をしっかりと勉強して、物事の本質を知ることができるようになれば、師としてやっていける人物になる」

という意味で、孔子は、この言葉を使ったようです。

但し、ここでの「温故知新」は、そんなに大袈裟なものではなくて、

「自分が昔読んだ本や書いた文章をもう一回読み直すと、新しい発見がありますよ。」

というぐらいの意味で、この言葉を使いたいと思います。

人間は、どんどん成長や変化をしていますから、時間が経つと、同じものに対してでも、以前とは、違う見方や、印象を抱くことがあるのです。

また、過去の本やnote(またはノート)を読み返すことを習慣化しておくことで、新しい「アイデア」や「気づき」が生まれることが、すごく多いんですね。

過去に考えていたこと(過去の情報)と、今考えていること(今の情報)が結びついて、化学反応を起こし、新たな発想が湧きあがってくる。

そんな感じになるのです。

昔読んだ本や書いた文章が、本棚や机の中で眠っているのは、とてももったいないことだと思います。

みなさんも、ぜひ「温故知新」を実践されてみてはいかがでしょうか。

7.小説を読むことと新書などの啓蒙書を読むことには違いはあるのか

以下に、示唆的な言葉を、2つ引用してみます。

◆「クールヘッドとウォームハート」

マクロ経済学の理論と実践、および各国政府の経済政策を根本的に変え、最も影響力のある経済学者の1人であったケインズを育てた英国ケンブリッジ大学の経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉です。

彼は、こう言っていたそうです。

「ケンブリッジが、世界に送り出す人物は、冷静な頭脳(Cool Head)と温かい心(Warm Heart)をもって、自分の周りの社会的苦悩に立ち向かうために、その全力の少なくとも一部を喜んで捧げよう」

クールヘッドが「知性・知識」に、ウォームハートが「情緒」に相当すると考えられ、また、新書も小説も、どちらも大切なものですが、新書は、主に前者に、小説は、主に後者に作用するように推定できます。

◆「焦ってはならない。情が育まれれば、意は生まれ、知は集まる」

執行草舟氏著作の「生くる」という本にある言葉です。

「生くる」執行草舟(著)

まず、情緒を育てることが大切で、それを基礎として、意志や知性が育つ、ということを言っており、おそらく、その通りではないかと考えます。

以上のことから、例えば、読書が、新書に偏ってしまうと、情緒面の育成が不足するかもしれないと推定でき、クールヘッドは、磨かれるかもしれないけども、ウォームハートが、疎かになってしまうのではないかと考えられます。

もちろん、ウォームハート(情緒)の育成は、当然、読書だけの問題ではなく、各種の人間関係によって大きな影響を受けるのも事実だと思われます。

しかし、年齢に左右されずに、情緒を養うためにも、ぜひとも文芸作品(小説、詩歌や随筆等の名作)を、たっぷり味わって欲しいなって思います。

これらは、様々に心を揺さぶるという感情体験を通じて、豊かな情緒を、何時からでも育む糧になるのではないかと考えられると共に、文学の必要性を強調したロングセラーの新書である桑原武夫氏著作の「文学入門」には、

「文学入門」(岩波新書)桑原武夫(著)

「文学以上に人生に必要なものはない」

と主張し、何故そう言えるのか、第1章で、その根拠がいくつか述べられておりますので、興味が有れば確認してみて下さい。

また、巻末に「名作50選」のリストも有って、参考になるのではないかと考えます。

8.【乱読No.15】「さまよう死生観 宗教の力」(文春新書)久保田展弘(著)

[ 内容 ]
いのちの危機の時代である。
民族紛争の現場に限らない。
危機は私たちの日常にある。
食物が溢れ、医療やインフラが整備され、死を忘れたかのような文明の只中に、不安が不気味な貌をのぞかせる。
死生観が揺れている。
永年、日本はじめアジア、欧州、中近東の多様な宗教圏を実際に歩み人々の生き死にへの思いを肌身で探ってきた宗教学者が、母の病変とその死に向きあい、改めて問う―人間とは何か、人は死をどう受けいれるのか、いま、宗教はどんな力を与えられるのか…。

[ 目次 ]
はじめに 巨樹の下で老人に出会う
第1章 “いま”という時代
第2章 曖昧な生と死
第3章 多神教は生と死をどうとらえたか
第4章 唯一神教世界における死と生
第5章 インド・ベナレスの岸辺で
第6章 日本人の生と死への思い
終章 生から死へ、死から生へ

[ 発見(気づき) ]
人間の存在の痛みを克服することにおいて、どの宗教も大きな差はない。
ただし、日本の仏教が「檀家」(集落、家)という形を構成しているため、個人との結びつきが弱い。
テロの地も平和な日本も、「いのちの危機」では同じこと。
とりわけ死生観をないがしろにする日本の風潮には憂いを感じる。

[ 教訓 ]
ユダヤ教には天国や来世といった死後の世界は存在せず現世での成果がすべてであるという。
それが経済的・物質的成果の重視や軍事力優先の強硬姿勢となって現れる。
それはまさしくいまのイスラエルの姿である。
それとは対照的にヒンドゥ教は生から死へ、死から生への生命の無限循環・輪廻転生と説くという。
ガンガー(ガンジス)河畔の「死を待つ人の家」は死を否定的にとらえたものではなく輪廻の通過点という神話にリアリティを与える場所である。
日本人でインドへ行ってみたいという人は意外に多いように思う。
観光のためだけならばインドを選ぶことはあまりないだろう。
やはりインドの風土には日本人の心性を惹きつけるものがあるのだ。
生と死を連続したものとしてとらえるインド哲学やヒンドゥ教の死生観がそれなのであろう。

[ 一言 ]
日本がどんなに経済大国になろうとも、その心性が現世利益に徹するように宗旨替えすることは不可能だろうと思う。
その一方で日本の神話的空間(例えば寺や神社)は形骸化しリアリティを失いつつある。
自分自身も含めて日本人の心性は流浪化し、その着地点を見出せないでいるように思われてくる。
環境保護とは物質的汚染から身体を護ることだけを意味しない。
心身を育む風土、自然環境と文化環境のインターフェイスたる風土を護ることでもあるのだ。

追記;
日本人の死生観の中心的な部分は、通常は仏教の教義に由来していると信じられている。
しかし、どうもそれは間違いだそうだ。
たとえば、輪廻転生を信じるインド仏教では葬儀を行わず、魂が離れた死者の体はもはや不要として、死体は焼いて骨と灰は川へ捨てるので、墓がない。
また、転生とは魂が再び身体をもった存在となることなので、死者の魂(霊)がいつまでもこの世の人間と関わりをもち続けるということもない。
死者と生者は、四十九日が過ぎれば縁が切れるのだから、先祖祭祀も不要だ。
そもそもインド仏教では、この世は生・老・病・死の苦に満ち満ちているので、転生しても再び人間として生まれることを必ずしも期待しないし、第一その確率は低い。
輪廻転生自体が永遠の苦悩であり、解脱して成仏するまでは、魂は休まる暇がない。
そして、成仏するとは、この世からは十万億土も離れた極楽浄土へ往くことである。
これらはすべて、平均的な日本人の死生観とはかなり異なる。
われわれは、死者の魂はこの世のしがらみから解放されれば一応成仏したというが、その後も定期的にこの世へ戻ってくる(あるいはわれわれが招き寄せる)と考え、その時に備えて死体の一部を墓に納めて管理し、招かれた魂と死体が依りつけるようにと位牌を用意する。
そもそも丁重な祖先祭祀の出発点として、盛大な葬儀を催す。
これだけでも仏教との違いは決定的だが、われわれ日本人の時間・空間認識も人生観も、仏教のそれとは大きく異なっている。
こうなった原因は、仏教が中国・朝鮮半島へ伝播したときに儒教思想を大幅に取り入れたのだが、それが日本へ到達したときにさらに日本的儒教の影響を受けたためであるという。
日本人の宗教感情は今も昔も、仏教の教義と儒教的死生観が合体し、それに神道的アニミズムが付加されたものである。
しかし、儒教には明確な教義体系がなく、教団も宣伝組織もない。
いわば「沈黙の宗教」である。
だから、ふだんわれわれは儒教の存在を意識することはない。
それどころか、儒教というのは「孝」を押しつける古い考え方で、すでに廃れてしまったものだと考えているし、先祖供養という行事さえ、もともと仏教のものだと思いこんでいる。
しかし、儒教は廃れていない。
「家の宗教」として、各家庭に存在し続けている。
儒教思想の核心は「孝」だとよくいわれるが、その意味はよく誤解されるような親孝行という狭い道徳的規範にとどまるものではなく、「生命の連続性の自覚」である。
つまり、先祖あっての自分であり、子孫あっての自分(子孫が栄えてこそ自分の思い出が末長く語りつがれ、またときどき自分の魂をこの世に呼び戻してもらえる)という認識である。
そこで孝の実践的要請は、祖先祭祀(先祖供養)、父母の敬愛、子孫の繁栄の3つである。
ここに、家族とくに親子関係を基軸とする、儒教独特の家族主義的道徳体系が成立する。
また、平安~室町期は、現世利益の対極に位置する浄土思想の最盛期でしたが、来世における利益(りやく)を求める浄土思想は、此岸であると彼岸であるとを問わず、身の安心を求めるという意味では、とても実利主義的な信仰である点で共通していたと思われる。

9.参考記事

<書評を書く5つのポイント>
1)その本を手にしたことのない人でもわかるように書く。

2)作者の他の作品との比較や、刊行された時代背景(災害や社会的な出来事など)について考えてみる。

3)その本の魅力的な点だけでなく、批判的な点も書いてよい。ただし、かならず客観的で論理的な理由を書く。好き嫌いという感情だけで書かない。

4)ポイントを絞って深く書く。

5)「本の概要→今回の書評で取り上げるポイント→そのポイントを取り上げ、評価する理由→まとめ」という流れがおすすめ。


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