【読書メモ(その3)】「人間は進歩してきたのか―現代文明論〈上〉「西欧近代」再考」佐伯啓思(著)(PHP新書)
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[ 教訓 ]
進歩主義は、近代国家が生み出した幻想であるが、ホッブズやロック、ルソーらが作り上げた国民国家、国民の意思、国民主権の背景には、古典古代の遺産(ローマ、ギリシアの思想)やキリスト教の神という西欧固有の、普遍的ではないものが存在する。
西欧の神がいなければ、個人も契約も成り立たない。
近代主義は、歴史を断層的な変化によって進歩するものと捉えることも指摘される。
進歩の象徴である産業革命、市民革命、科学革命は、伝統的価値や旧体制を打ち壊し、新たなものが人為的に作り出されると考える。
革命は、その都度、伝統的価値を排除した近代を特権化する。
決して歴史が重層的に積み重ならない。
私たちは、過去から学べなくなることもあるのだということを、知っておくべきである。
その点に関して、フランス革命を批判したイギリス人の思想家エドモント・バークについて著者が書いた一文は興味深い。
「緩やかな特権のなかにこそ、統治の知恵や社会の秩序をつくる秘訣があるというのが、バークの考えでした。
特権、伝統、偏見------これらはたしかに合理的なものではないが、ここには先人の経験が蓄積されている。
だとすれば、それが合理的でないという理由で、特権や伝統、偏見を破壊し、排除すべきではない。
それを敢行したフランス革命は大混乱と残虐に陥るだろうというわけです。
このバークの議論は、現代でも、まだ拝聴すべきものを含んでいると私には思われます。」
私たちも、民主主義や自由は良いものであると西欧風教育を受けて育っている。
進歩主義思想にだいぶ染まっている。
しかし、この価値観は、ローカルルールに過ぎず、それを共有しない文化と折り合っていくことを難しくしている。
また、個人が自由になること自体が権力を生み出すとしたフーコーの思想、近代的道徳とは、弱者のルサンチマンを正当化したものに過ぎないとしたニーチェのニヒリズムなど、西欧進歩主義も突き詰めていくと、内部から崩壊してしまう。
現代人は、いったい何を確かなものと考えるべきなのか。
それを銘銘が考える場がインターネットということになる気がする。
重要なのは多元的で、重層的な価値観、異質への寛容さなのではないかと、この本を読んで思った。
中庸といってもいいかもしれない。
特権、伝統、偏見という非合理にみえるものも、合理的に利用する東洋的知恵を、歴史から学ぶことが大切なのだろう。
日本人は、ちょうどよい位置にいるような気がする。
[ 補足事項 ]
本書は、大学の授業録とはいえ、専門科目ではないので、近代史(特に西欧近代)に興味がある人はすぐに読めると思う。
著者は、講義の中で、現在学問の場で幅をきかせる進歩史観だとか実証主義歴史学に疑念を投げかけている。
そして、それを疑い、そういう認識の行き詰まりを感じた上で、総合的に学問体系を組み立てなければならないとして、その答えは、ここでは出さず学生一人ひとりに託してこの講義は締めくくられている。
著者の論では、西欧近代は、普遍なものではなく、歴史の一つの流れとして相対化する。
そうしなければ、西欧というもののやり方がすべて絶対的なものになってしまう。
つまりは、アジアやアラブなどは未開もしくは半開の状態であり、西欧の文化にいかに近づけるかが近代化であるという結論が論理的に導き出されてしまうのである。
いわゆる、現在のアメリカ政府の動きは、フィクションでしかない西欧近代とやらを原理主義的に持ち出して、例えば、アラブの連中がテロを起こすのは、やつらの世界に近代化が貫徹していないからだという、近代以降の世界的な原理主義に過ぎない。
著者は、そんな西欧近代というものに疑義を挟んでいるわけであり、では、西欧近代とは何か?ということを考えると、3つのファクター(それはすなわち3つの革命)があるとする。
前述した通り、「科学革命」「市民革命」「産業革命」である。
科学革命とは、呪術的思考を排して合理的思考を持とうとする人間の意識の変化のことで、市民革命は、いわずもがな近代的な国家、すなわち絶対者が支配するのではなく、契約(社会契約)によって成立する国家を作ろうとして市民が立ち上がったものであり、産業革命は、農耕から工業へ産業の基礎が移動した。
すなわち、人間が古代以降縛られていたとされる土地から解放され、移動が自由になったとするものである。
そして、各論として、そういう西欧近代の方向付けを行なったものとして、ホッブズの「リヴァイアサン」、ルソーの「社会契約論」の読解、そして、成立した近代社会がどこへ向かったかということを個人主義、合理主義、ニヒリズム(虚無主義)と言う点から分析している。
とはいえ、重要ではあるが、基礎的な問題ばかりなので、関連資料を併読しながら読めば、ある程度は理解できるのだが、一つ、この本によって蒙を啓かれた部分があった。
それが、ルソーの「社会契約論」の読み方についてだ。
今までルソーの造語「一般意思」とは、直接民主制によって定められた民衆全体の意志だと思っていて、「これは社会主義の起源だ」とか「ファシズムの起源だ」と嫌悪されることもあるが、著者の説によると全体意思と一般意思は違う。
なぜなら、全体意思とは、人間一人ひとりの個人的な意思の総和であり、それは、ルソーの「社会契約論」に書かれていることと反するというのだ。
もっとよくわかるように言うと、個々人の意思は、一般意思とは関係ない。
なぜならば、個人は、けっして褒められるばかりの存在ではないからだ。
人間には、欲望というものがある。
個人は、欲望を基に個人の利害や関心のみを社会に投げかけてくるかもしれない。
立派な契約社会を成り立たせるためには、社会が個々人の利害を調整したり、個々人の関心に振り回されたりするものとなってはいけないのだ。
ルソーは、ここで、個々人の感情から出る意思を特殊意思として、一般意思と区別した。
では、一般意思が個人のためにあるのではないのなら、何のためにあるのか。
それは、防衛のためであると著者は言う。
「一般意思として想定されるもっとも基本的なものは共同防衛、すなわち共同で自分たちの生命・財産を防衛する、ということでしょう。
ホッブズにおいてもルソーにおいても、少なくともひとつの集団をつくる目的は、彼らの生命や財産の共同防衛です。」(125頁)
そして、ルソーは、ホッブズの描いた市民観を修正したという。
ホッブズの描いた市民像では、市民は公共のことには関心を持たない。
個人の生命や財産、個人の自由など私のことにしか興味がない。
いわゆる現代風でいえば、いわゆる経済人こそホッブズの描いた理想的市民像だった。
ルソーは、それを批判しないまでも、それでは不十分だと言ったのだ。
ルソーは「社会契約論」にかく言う。
「市民は法によって危険に身を晒されることを求められたとき、その危険についてもはや云々することはできない。
そして統治者が市民に向かって『お前の死ぬことが国家の役に立つのだ』というとき、市民は死ななければならない。
なぜならこの条件によってのみ、彼は今日まで安全に生きてきたからであり、また彼の生命は単に自然の恵みだけではなく、国家から条件つきで贈られたものだからである。」(127頁)(ルソー「社会契約論」第3篇、第4章より)
本来、民主主義とはこういうことなのである。
現代社会でも民衆(とりわけ国民)が主権を存している以上、個人の自由だ、平等だ、とただ叫べばいいというものではない。
どういう者に国民として自由や平等を与えられるかというと、自身が属する国のために尽くすことが前提条件となっている。
そして、何をもって一番主権者たる国民として国家のためにできるか、といえば危機が迫ったときの防衛である。
別に戦争に限らず、何か有事の際は男性だろうと、女性だろうが、自ら武器(この場合、論争としての言葉も武器の一つである。)を持って戦わざるを得ないのが現実であり、且つ、歴史が、それを嫌と思うほどの事例を見せつけてくる。
そういう国に対して責任も持てない人間が平和がいいとか、もっと権利をとか言っても、外に向けて響く言霊にはならないのだろう。
そういう人間こそ権利を自分が握ったらメチャクチャなことを仕出かす可能性が高く、また、いざ戦争になったら真っ先に逃げるのだろうと思う。
戦争は、絶対に回避すべき第一優先事項では有るが、同じ国内に、防衛について真剣に考えている人間が、どの程度存在しているのか?
こういう人間を、きっとルソーは、特殊意思の持ち主として許さないのだろうなと感じた。
人間は、平和を求めるのは自由ではあるが、これまでの歴史を省みた時、絶対に永久に平和にはなれないかもしれない可能性についても強く認識した上で、普段から、リスクを、どう回避すべきかを考えておく必要があると思う。
ピーター・ドラッカーが言っていたのだが、成功の可能性は必要だが、等しく失敗の可能性も必要であり、リスクなき構想は必ず失敗すると。
例えば、普段の人間関係からスタートして、戦ったらその時点で負けだというスタンスにこそ、私達は学ぶべきなのではないだろうか?
大切なのは、自身の幸福と、そして、ゆっくりとだが濃い欲望の実現を考えて行くことから始めてみないと、それに続く、組織や、社会や、国家や、更に世界の平和を考えた場合、何かを愛するとか、守るとか等の規模が大きくなるため、適切な判断が難しいように感じる。
普段から、システム思考等を活用して、自分自身の怠惰な心に対して、以下の基本的なステップで向き合い、
1. 課題を設定する
2.今までパターンの分析
3.ループ図でシステム構造を見る
4.このままのパターンを確認
5.望ましいパターンを考える
6.抵抗を予測し、対策を立てる
7.望ましいパターンを実践に移す
8.振り返り、学習し、広げていく
時に愛でて、時に鞭打って、理想の自分と現実の自分との間にあるものを、どうやって埋めていくかという争いにこそ、本当の挑戦(戦い)があると思う。
要は、人と争う必要などなく、自身との争いを治める毎に、個から全へと防衛力は高まって行くように思う。
その争いを治めるためにも、やはり下らない争い事で戦ったら負けなのだと思うのだが、なかなか、争い事を好む人間も多く、事が上手く運ばないことも多いのだが、争うべき争いでキチンと争い(個人レベル)、争うべきではない争いの鉾を、どう収めるかに人間の叡智を使いたい。
その様なわけで、民主主義の中で生きていくためには、主権である国民と呼ばれる人間が国に対する責任と勇気をもたなければならないのだと思う。
ルソーが社会契約を考える際、やはり参照にしたのは、古代ギリシャの民主主義ということを忘れてはならない。
プラトンだったと思うが、「4つの徳」(知恵・勇気・節制・正義)を持ったものが市民として認められるわけで、自らの欲望や理性、感性を自ら制御できない人間は市民たり得ない。
民主主義者もナショナリストも、事実として防衛によって自分たちの平和が保たれていることに、ちょっと無自覚に過ぎると思う。
それほどに、日本は、国家としておかしいのではないだろうか?
ここで、今一度、省みるべき点として、アメリカ独立は成功、フランス革命は失敗とある。
アメリカ独立は、各州の上に連邦政府という「権力の創造」を行うためのものだった。
フランスの市民革命は、無産階級が君主、貴族や僧侶に対する恨みをエネルギーに行ったので、転覆には成功したが、その後に正当な権力の空白が出来て混乱した。
しかし、人間社会のいかなる主従関係も、多かれ少なかれ恨みや憎しみを生み出す土壌ではある気がする。
そして、グローバリズムを押し進めるアメリカへの批判とともに、自由、平等、民主主義、市場経済等の近代思想がもたらしたとされる恩恵に疑問を感じる人々が増えつつあるのも事実である。
最後に、詩人である長田弘さんの言葉を紹介しておく。
「人生は受容であって、戦いではない。
戦うだとか、最前線だとか、戦争のことばで、語るのはよそう。」
人それぞれ考え方も違うし、進め方やペースも違ってくる。
そうでなければいけないという概念を捨てて、まずは、自分のやり方を形作っていく。
また、自分に合ったスタイルで、自分の納得できるやり方をしていく。
そして、はじまりは歩み寄りから。
そこで、分裂せず融合できれば進歩である。
その過程を経て、協働して力を合わせることができれば成功となり、争う必要など、どこにも見当たらない。