楽しい会話!
およそ「ことば」の使命は、なにがしかの意味を伝えるということにあります。
それは「わかりやすさ」ということと関わります。
私たちは意味をやりとりするために書き、話し、歌うし、読み、聞き、聴くのですが、たまには、「書きことば」と「話しことば」が意味を伝える仕方の違いについて考えてみるのもいいかもしれません。
日本語の書きことばは、ひらがな、カタカナ、漢字の組み合わせによって一目で意味が明瞭にわかるように、長い年月をかけて改良されてきています。
しかし、読んですぐ分かる文章が聞いてもよく分かる文章であるとは限りません。
そこで、ことば遊びでなどでは、そのことを逆手にとって、そこに生まれるちょっとした落差を楽しんでいるわけです。
確かに、「意味を決めるのは聞き手」なのですが、そもそもの「言葉の使命」を考えれば、言葉の発信者と、何らかの「情報の共有」というか、「意味の共有」が発生しなければ、「聞いた」事になりません。
もちろん、それは常に成功を収めるのではなく、往々にして失敗します^^;
失敗することで、「他者」という、私たちにとって重要な概念を得ることになるのですが、それでも「成功」を目指す必要があります。
この経験の積み重ねは、レヴィナスに言わせると「他者を自己に取り込む」作業に他ならないのですが、それをせずにはいられないのが人間です。
また、「話し手」と「聞き手」が「意味」を共有する為には、彼らの属する集団の「規則」あるいは「慣習」が必要になります。
もちろん、愛し合う恋人同士なら、二人だけのルールがあってもいいのですが、そういう場合は、「言葉さえいらない」ものですよね。
まさに「ツーといえばカー」もしくは「阿吽」なわけです。
それでもやはり「慣習」とか「規則」はあって、彼らもそれに従うわけですが・・・・・・
そのような「慣習」や「規則」を共有する中で、特権的・支配的な「意味」が現れてきます。
それは、スチュアート・ホールのいう「オーディエンス」の有り様にも似ています。
スチュアート・ホールのいう「オーディエンス」は、単なる聞き手というよりは、もう少し広い対象を扱っています。
TVの視聴者とか、読者とか、メディアという媒体を通したコミュニケーションの受け手全般が「オーディエンス」です。
発話者がメッセージを記号化してオーディエンスに送り届ける。
この記号化がエンコーディングです。
そうしてオーディエンスの側がこの記号化を読み解く。
それがディコーディング。
オーディエンスがこのディコーディングをどの立場から行うかによって、メッセージの意味そのものが変容していく、というのが、ごくごく荒っぽい説明です。
言い換えると、「これこれはこういう意味である」という、強力なルールによって、「話し手」も「聞き手」も拘束されます。
そのルール自体には、なんら「本来的」「根源的」「本質的」な根拠はなく、また一時も同じ形にとどまるようなものでは無いことを、現代の思想家たちは暴露して来ました。
でもその「拘束」があるからこそ、「話し手」と「聞き手」は「意味」を共有しうるのだとも言っています。
つまり、ことばの使命は話者の思いや意志などをしっかりと伝えることです。
広い意味のことばひとつでうまく伝わった時はそれでよろしいかとも思います。
そうでない時には、今度はもう少し狭い、つまり意味が明確になることばでフォローする必要があります。
言葉が生まれ持った使命に目を向けてみるのもいいかもしれませんねぇ(^^)
それは、相手に自分の思いを過不足なく伝えるためだけど、善行について言えば、それは一人の人間にとって手一杯の仕事になるほど、大掛かりなものだと感じます。
アメリカの思想家であるソローは、「わたしはこの仕事にかなり励んだ結果、奇妙に聞こえるかもしれないが、自分の気質に合わないことを発見した。」と言っていました。
また、会話はよく、“キャッチボール”に例えられます。
では、キャッチボールで大切なことは何でしょうか?
ぼーっとしながら適当に投げたり、相手がとれないような乱暴なボールを投げていては、楽しいキャッチボールはできませんよね。
まず大切なことは、リズムよく投げることです。
そして思いやりと自信を持って投げることです。
思いやりのある投げ方については、会話の表現力を磨くことが必要です。
ひとつは対話力で、上手に楽しく“会話のキャッチボール”をするための技術です。
この力は、相手への思いやりや関心など、ちょっとした心がけですぐ身につきます。
もうひとつは、英語独特の発想力。
あまり普段、こんなことを考えずに会話していると思いますが、事実をどのようにとらえて、言葉に変換するのかを知ることが大切です。
同じものを見ていても、自分と相手では全く違う角度でとらえていることもあります。
相手の目線で見てみると、今までとは別の発見があるかもしれません。
そして、楽しい会話に必要なエッセンスのひとつが笑い(^^)
笑いを起こす要素は何であれ持っているだけで幸せだと思います。
笑われる=話の中心。
笑われてようが笑わせてようがその場にいる人は笑っています。
会話している輪の中で全員が話している訳ではありませんよね?
話している人もいれば聞いている人もいます。
そこで無理に話そうとする必要はないかと思います。
話すネタを持ってる人、話が得意な人が話せばいいしまた話す人も聞く人を求めています。
聞くだけ、あいづち、笑う、怒る、それだけでいいと思います。
言葉のキャッチボールといいますが実際のボールではありません。
投げられたらすぐに投げ返さないと成立しないのではなく、投げられたボールを受けて、また投げられたボールを受けてもいいのです。
言葉のキャッチボールは投げたいと思う人の所にすぐボールが生まれます。
返さなくてもすぐ投げれます。
あまり気にせず、聞き手に回ればその輪に自然と加われます。
私たちが疎外感を覚える理由は会話をしなければ!何か話題提供しなければ!などと思うからだと思います。
気にしないで聞き手に回るうちに自然と輪に入って、一緒に笑っていると思います。
まぁ、くれぐれも注意しておかないといけないのは、文字にして人になにかを伝えるとき、それは大いなる誤解の危険性を含んでいることを・・・・・・
たとえばメール。
文字だけというのは、しかも機械的な字面というのは、作成者の意図しない思いを相手に感じさせてしまいます。
全然怒ってないのに冷たく響いたり、冗談が冗談として伝わらなかったり。
顔を見て、声を聞いていれば、そんなすれ違い起きないのに・・・・・・というような些細なズレも多々あると思います。
もちろん、文字にだって便利なところはあって、それは口で言うより素直になれる点だったり、文章を推敲できる点だったりするんだけど、ね。
それでも、やっぱり厄介。
言いたいことがあって、そのため言葉を重ねれば重ねるほど、本当に言いたいことから遠退いてしまったり。
ひとつの“言葉”に対するイメージというか解釈は、受け取り手によってさまざまで、その誤差を埋めることができなかったり。
それでも、相手を解りたくて、相手に解ってほしいなら、言葉を紡ぐことをやめるわけにはいかない、と思います。
その労力を惜しむのは怠慢だ、とも。
やっぱり、学校で恋文?を書く授業とかやるべきなんでしょうねぇ(^^)
何よりおいしい、アペリティフ♪を飲みながら笑顔で会話だね!
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