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昔読んだ本を読み直してみると・・・・・・

みなさんは、こんな出来事経験したことないですか?

子供の頃に読んだ物語や、最初に読んだ小説を、何年経っても、意外と良く覚えているってことを。

それは、いろんな心的要因があったと思うのですが、例えば、読むのに時間がかかったけど、言葉の意味に囚われないで、その物語を自分の中でイメージをしっかり描いて、想像力豊かに受け止めていたことも一因ではないかと思ったりします。

しかし、大人になるにつれて、だんだん文章が速く読めるようになってくると・・・・・・

これは、読む能力が増したように錯覚してしまいそうだけど、実は、そうではないんじゃないか?

つまり、言葉が表していたはずの元のイメージを頭の中で展開せず、ただ言葉を鵜呑みにして処理するようになっただけではないかと感じます。

あまり面白い作品の出会わないのは、実は、自分のこのような状況が影響しているのかもしれないなと・・・・・・

こういった状態で読んだ本は、次第にインパクトが薄くなるし、すぐに忘れてしまうようにもなります。

本を沢山読む人、読むのが速い人ほど、この傾向があるように感じられます。

読書など単なる習慣に過ぎないという人もいますが、読み方に作法を感じると楽しめないのも事実。

だけど、確かに単なる習慣だけれど、身につけておいて決して損ではない習慣であると思います。

ただ、娯楽で読む以外に、何かを得ようとして読書をするのであれば、学び方を学ぶ、ということが大事なのかなと思います。

ただ、読書と一口に言っても、思想書、純文学、歴史・ノンフィクション・ドキュメンタリー、マンガ、ビジネス書、専門書、趣味・娯楽書などにジャンル分けでき、読む本の種類にも拠るけど、読書で得た知識そのものではなく、自己学習できるかどうかである、ということなのかもしれません。

どんなものにもいろんな面があります。

だから、少数の言葉でイメージを限定しないことで、抽象化が発想を促し、その過程で思考を要求するから、何となく「型」のようなものが見えてきて、楽しみの幅も拡がって行く様に感じます(^^)

私が初めて自分のお小遣いで町の小さな本屋さんに行き、買った本がこれなんですよね(^^)

「船乗りクプクプの冒険 (改訂新版)」北杜夫【著】(集英社文庫)

あらすじは、宿題、勉強ああ嫌だ~と言って机にむかうフリをしながら現実逃避のためにページを繰った少年は、いつの間にか物語の主人公として大海原にこぎだすはめに。

そこは奇妙でハチャメチャな別世界。

元の世界に戻るためには、物語の中を逃げ続ける作者を捕まえなければ!

退屈な日常をがらりと変える豊かな空想の世界。

大人から子どもまで、読み始めたらとまらない奇想天外なファンタジーなんですが、小学生の時には楽しめたのに、今、読んだとしても、その当時のワクワク感は味わえないんだろうなあ~

それは、大人になることと引き換えに手放した、荒唐無稽な夢を見る能力を手放してきたからなんでしょうね。

子供は、夢でなくても、現実離れしたことを考えるものです。

でも、だんだんと周囲との折り合いをつけるようになる。

この折り合いが常識であり、常識が備わってくると、想像力は、鳴りを潜めざるをえなくなります。

たぶん、想像したものを自分自身で否定するうちに、だんだん考えないようになり、想像力を使う機会が、普段の生活では、滅多になくなっているのだと感じます。

元も子もない話をすれば、想像力を働かせなくても生きていけるし、むしろ変なことを考えない方が生きやすいとさえ言えるかもしれませんよね。

そうそう、NHKの「哲子の部屋」って番組で、映画『HK/変態仮面』等を教材にして、人間は、みんな変態だって言ってたけど、こう言われて、みなさんは、どうイメージしますか?

最近は、自分探しや自分らしさなど、アイデンティティに関する悩みが尽きない現代人ですが、その悩みを解決するキーワードがなんと”変態”(メタモルフォーゼ)にあるそうです(^^)

自分らしさや自分探しのような具体的なものに囚われていると、主観的に成り過ぎて、考えているよで、実際は、モノの見方・考え方が固定化されてしまっているとのこと。

何故なら、想像する行為が、現実認識にとって障害になるので、逆にこれを規制(自制)しようと生理的に働きかけるからであり、つまり、物事を抽象化するためには、想像が必要なのに、自分が想像するのを、自分で邪魔していることになっているんじゃないでしょうか。

そうであれば、イメージを限定しないことで、モノの見方・考え方を一変させることも可能だと思いませんか?

そう、前は気づけなかった新しい視点が見つかるかもっ☆

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