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【新書が好き】日露戦争


1.前書き

「学び」とは、あくなき探究のプロセスです。

単なる知識の習得でなく、新しい知識を生み出す「発見と創造」こそ、本質なのだと考えられます。

そこで、2024年6月から100日間連続で、生きた知識の学びについて考えるために、古い知識観(知識のドネルケバブ・モデル)を脱却し、自ら学ぶ力を呼び起こすために、新書を学びの玄関ホールと位置づけて、活用してみたいと思います。

2.新書はこんな本です

新書とは、新書判の本のことであり、縦約17cm・横約11cmです。

大きさに、厳密な決まりはなくて、新書のレーベル毎に、サイズが少し違っています。

なお、広い意味でとらえると、

「新書判の本はすべて新書」

なのですが、一般的に、

「新書」

という場合は、教養書や実用書を含めたノンフィクションのものを指しており、 新書判の小説は、

「ノベルズ」

と呼んで区別されていますので、今回は、ノンフィクションの新書を対象にしています。

また、新書は、専門書に比べて、入門的な内容だということです。

そのため、ある分野について学びたいときに、

「ネット記事の次に読む」

くらいのポジションとして、うってつけな本です。

3.新書を活用するメリット

「何を使って学びを始めるか」という部分から自分で考え、学びを組み立てないといけない場面が出てきた場合、自分で学ぶ力を身につける上で、新書は、手がかりの1つになります。

現代であれば、多くの人は、取り合えず、SNSを含めたインターネットで、軽く検索してみることでしょう。

よほどマイナーな内容でない限り、ニュースやブログの記事など、何かしらの情報は手に入るはずです。

その情報が質・量共に、十分なのであれば、そこでストップしても、特に、問題はありません。

しかし、もしそれらの情報では、物足りない場合、次のステージとして、新書を手がかりにするのは、理にかなっています。

内容が難しすぎず、その上で、一定の纏まった知識を得られるからです。

ネット記事が、あるトピックや分野への

「扉」

だとすると、新書は、

「玄関ホール」

に当たります。

建物の中の雰囲気を、ざっとつかむことができるイメージです。

つまり、そのトピックや分野では、

どんな内容を扱っているのか?

どんなことが課題になっているのか?

という基本知識を、大まかに把握することができます。

新書で土台固めをしたら、更なるレベルアップを目指して、専門書や論文を読む等して、建物の奥や上の階に進んでみてください。

4.何かを学ぶときには新書から入らないとダメなのか

結論をいうと、新書じゃなくても問題ありません。

むしろ、新書だけに拘るのは、選択肢や視野を狭め、かえってマイナスになる可能性があります。

新書は、前述の通り、

「学びの玄関ホール」

として、心強い味方になってくれます、万能ではありません。

例えば、様々な出版社が新書のレーベルを持っており、毎月のように、バラエティ豊かなラインナップが出ていますが、それでも、

「自分が学びたい内容をちょうどよく扱った新書がない」

という場合が殆どだと思われます。

そのため、新書は、あくまでも、

「入門的な学習材料」

の1つであり、ほかのアイテムとの組み合わせが必要です。

他のアイテムの例としては、新書ではない本の中にも、初学者向けに、優しい説明で書かれたものがあります。

マンガでも構いません。

5.新書選びで大切なこと

読書というのは、本を選ぶところから始まっています。

新書についても同様です。

これは重要なので、強調しておきます。

もちろん、使える時間が限られている以上、全ての本をチェックするわけにはいきませんが、それでも、最低限、次の2つの点をクリアする本を選んでみて下さい。

①興味を持てること

②内容がわかること

6.温故知新の考え方が学びに深みを与えてくれる

「温故知新」の意味を、広辞苑で改めて調べてみると、次のように書かれています。

「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」

「温故知新」は、もともとは、孔子の言葉であり、

「過去の歴史をしっかりと勉強して、物事の本質を知ることができるようになれば、師としてやっていける人物になる」

という意味で、孔子は、この言葉を使ったようです。

但し、ここでの「温故知新」は、そんなに大袈裟なものではなくて、

「自分が昔読んだ本や書いた文章をもう一回読み直すと、新しい発見がありますよ。」

というぐらいの意味で、この言葉を使いたいと思います。

人間は、どんどん成長や変化をしていますから、時間が経つと、同じものに対してでも、以前とは、違う見方や、印象を抱くことがあるのです。

また、過去の本やnote(またはノート)を読み返すことを習慣化しておくことで、新しい「アイデア」や「気づき」が生まれることが、すごく多いんですね。

過去に考えていたこと(過去の情報)と、今考えていること(今の情報)が結びついて、化学反応を起こし、新たな発想が湧きあがってくる。

そんな感じになるのです。

昔読んだ本や書いた文章が、本棚や机の中で眠っているのは、とてももったいないことだと思います。

みなさんも、ぜひ「温故知新」を実践されてみてはいかがでしょうか。

7.小説を読むことと新書などの啓蒙書を読むことには違いはあるのか

以下に、示唆的な言葉を、2つ引用してみます。

◆「クールヘッドとウォームハート」

マクロ経済学の理論と実践、および各国政府の経済政策を根本的に変え、最も影響力のある経済学者の1人であったケインズを育てた英国ケンブリッジ大学の経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉です。

彼は、こう言っていたそうです。

「ケンブリッジが、世界に送り出す人物は、冷静な頭脳(Cool Head)と温かい心(Warm Heart)をもって、自分の周りの社会的苦悩に立ち向かうために、その全力の少なくとも一部を喜んで捧げよう」

クールヘッドが「知性・知識」に、ウォームハートが「情緒」に相当すると考えられ、また、新書も小説も、どちらも大切なものですが、新書は、主に前者に、小説は、主に後者に作用するように推定できます。

◆「焦ってはならない。情が育まれれば、意は生まれ、知は集まる」

執行草舟氏著作の「生くる」という本にある言葉です。

「生くる」執行草舟(著)

まず、情緒を育てることが大切で、それを基礎として、意志や知性が育つ、ということを言っており、おそらく、その通りではないかと考えます。

以上のことから、例えば、読書が、新書に偏ってしまうと、情緒面の育成が不足するかもしれないと推定でき、クールヘッドは、磨かれるかもしれないけども、ウォームハートが、疎かになってしまうのではないかと考えられます。

もちろん、ウォームハート(情緒)の育成は、当然、読書だけの問題ではなく、各種の人間関係によって大きな影響を受けるのも事実だと思われます。

しかし、年齢に左右されずに、情緒を養うためにも、ぜひとも文芸作品(小説、詩歌や随筆等の名作)を、たっぷり味わって欲しいなって思います。

これらは、様々に心を揺さぶるという感情体験を通じて、豊かな情緒を、何時からでも育む糧になるのではないかと考えられると共に、文学の必要性を強調したロングセラーの新書である桑原武夫氏著作の「文学入門」には、

「文学入門」(岩波新書)桑原武夫(著)

「文学以上に人生に必要なものはない」

と主張し、何故そう言えるのか、第1章で、その根拠がいくつか述べられておりますので、興味が有れば確認してみて下さい。

また、巻末に「名作50選」のリストも有って、参考になるのではないかと考えます。

8.【乱読No.23】「日露戦争―もうひとつの「物語」」(新潮新書)長山靖生(著)

[ 内容 ]
開国から五十年後の一九〇四(明治三十七)年、近代化の節目に起きた日露戦争は、国家のイメージ戦略が重んじられ、報道が世論形成に大きな役割を果たした、きわめて現代的な戦争だった。
政府は「正しい」戦争の宣伝に腐心し、新聞は開戦を煽った。
国民は美談に涙し、戦争小説に熱狂した。
大国ロシアとの戦争に、国家と国民は何を見て、何を考え、どう行動したのか?
さまざまな「物語」を通して、日露戦争をとらえ直す。

[ 目次 ]
第1章 誰が戦争を望んだのか
第2章 「正しい」戦争と情報戦略
第3章 戦場の表現者たち
第4章 「露探」疑惑と戦争小説
第5章 架空戦記と大陸への論理
第6章 反戦・厭戦運動と旅順戦役
第7章 終戦、そして次の戦争へ

[ 発見(気づき) ]
人が死ぬ。
家は焼け、街も文化も環境も破壊される。
そんな戦争を好きだと公言する人間はいないだろう。
ブッシュもフセインも、「好きでやってるわけではない」と言うに違いない(推定)。
にもかかわらず、戦争は起こる。
それをみんなが、お茶の間で見るのが今という時代だ。
犯罪にしろ、天災にしろ、戦争にしろ、大事件を報道する時のマスコミ関係者は、心なしか嬉しそうに見える。
たぶん好奇心を尖らせて興奮しているせいだろう。
いったい何時から、戦争は娯楽になったのか?
今から100年前に起きた日露戦争は、すでにメディアの戦争だった。
戦争のはじまる前から、主戦論、反戦論の主張が新聞雑誌を大きく飾り、売れ行きのいい「主戦」がメディアの主流になった。
シミュレーション小説は、開戦前から講和条件の皮算用をしていた。
戦争中、幸徳秋水は飲み屋や歓楽街の賑わいをルポし、戦争でいちばん儲かっているのはメディア産業だと書いた。
たしかに、戦争報道専門のヴィジュアル雑誌が幾つも創刊され、ある新聞は一日に五度も号外を出した。
多くの作家や画家が従軍記者として戦地に進み、兵士も競うように詩歌を作っては内地の雑誌に投稿した。
軍医・森鴎外と従軍記者・田山花袋は、戦場に上がる火柱を目撃して「君、いい処を見たね」「実に壮観でした」と語り合い、夏目漱石も石川啄木も戦争を讃える詩を発表した。それが日露戦争だった。
戦争は暗くて悲惨なもの、とわれわれは思っている。
だが当時、戦争は華々しいものだった。
少なくとも公式には。
太平洋戦争時には燈火管制で日本中が暗かったが、日露戦争では連日のように松明行列や提灯行列が繰り出し、街はイルミネーションに彩られ、物理的にも明るかった。
百貨店は戦争の最中に、〇〇陥落記念の大売り出しを行い、記念絵ハガキや記念指輪、陸海軍マークの髪留めなどを売り出した。
まるで阪神優勝のような騒ぎ。
戦争という現実をメディアがどう報じ、民衆がどのように反応したのかを振り返ってみると、100年経っても変わらない人間の滑稽で哀しい性質を思った。
自分自身も巻き込まれている戦争を、野次馬のように傍観し、心のどこかで楽しんでしまうのは、民衆の強かさなのか?
それとも諦めだろうか。
昂揚する愛国心と、反戦・厭戦の心情の狭間で、みんな何を考えていたのか。
歴史とは何だろう。
開国から日露戦争までが五○年。
そして自衛隊は成立五○年でイラクに派遣される。
これはひとつの達成か。
それとも忘却に費やされた時間であったのか・・・。

[ 問題提起 ]
近代史の最大の興味は、いつ、どの時点で「歴史のif」を行使することができるか、それを探ることだといえる。
すなわち、日露戦争後の、それぞれの歴史のターニングポイントで別の選択肢を取っていたら、あの愚かしくも悲惨な太平洋戦争の悲劇を避け得たのかどうかということだ。
ところで、歴代の内閣が最初は不拡大方針を取りながら、最終的に結果オーライとなってしまった背景に、新聞による世論の後押しがあったことは事実である。
とくに満州事変で、最初は軍部に批判的だった新聞は途中からコロリと意見を変え、戦争を煽りたてる。
そのウラには陸軍の金が動いていたこともあるが、戦争となれば、新聞の部数が伸びるという事実があった。
そして、これは日露戦争の頃から定着していた現象で、戦争があれば新聞社は儲かったのである。
日露戦争が風雲急を告げると、それまで非戦論だった新聞までが主戦論に回り、早期開戦を主張し始める。
戦争は民衆にとって最大の娯楽であり、新聞社にとっては部数拡大の千載一遇のチャンスだからである。
新聞各社は大衆動員態勢をしいて、報道に努める。
ひとことでいえば、このときから、新聞は戦争への熱を煽る装置となったのだ。
非戦論だった「二六新報」は、ロシアのスパイ(これを露探と呼ぶ)扱いされ、社主の秋山定輔は議員辞職を迫られ、新聞も部数を減らす。
しかし、一方では「平民新聞」のような堂々たる非戦論の新聞も発行され、一部読者の共感を呼んでいた。
ではなぜ、こういうことが可能になったかといえば、それは当時、世界が日露戦争に注目して国際的関心が日本に注がれていたため、日本は思想弾圧をしない文明国という姿勢を取らなければならなかったからである。
「海外メディアの関心が日本に集まり、その視線を政府が意識しなければならなかったこの時期は、戦時下であるが故に反戦活動がしやすいという、不思議な事態が出来していたのだった」
一般の新聞でもフェアプレイの精神が強調され、敵の敢闘精神を謳う記事が多く書かれた。
太平洋戦争のときよりも、報道管制ははるかにゆるくて、「毎日新聞」には、開戦直前に大倉財閥を批判する木下尚江の反戦小説『火の柱』などが平気で掲載されていた。
明治政府は、日露戦争を文明国日本と非文明国ロシアの戦いと規定していたので、文明国らしい鷹揚な態度でマスコミに対処することを余儀なくされたのだ。
この意味で、情報的に開かれているということがどれほど大切なことかわかるだろう。
独裁は、まず、情報的に閉ざされることから生じるのである。

[ 教訓 ]
ここで、日露戦争が日本の歴史にとっていかに重要であったか振り返ってみたい。
強調してもたりないぐらい日露戦争は、世界史の流れを変えた大事件である!
新潟県上越市の高田公園一角に山県有朋、東郷平八郎両元帥による日露戦争地元戦没者の慰霊碑がある。
今は訪れる人もほとんどおらず、ただひっそりと碑はたたずんでいる。
この風景は戦後日本に大きく欠落したものを象徴しているように思えてならない。
大東亜戦争敗戦後のGHQによる日本占領は「日本の戦争遂行能力を徹底的に除去する」という方針の下に行われ、これは兵器・産業等の物理的能力の破壊と同時に、日本人の心理・精神から戦争を行う意志をも完全に除去することを意図した。
こうした目的を達成するため、GHQは昭和20年12月8日から日本の新聞各紙に自らの編集になる「太平洋戦争史」を連載を強制させるなど、徹底したプロパガンダで、大東亜戦争でいかに日本が非道徳的行為を重ねたかを国民に浸透させていく。
その結果、敗戦は米国に対する「道徳的敗北」として広く国民の意識下に浸透し、以後戦争に関わる事柄すべてをタブー視する今日の風潮が生まれるのである。
日露戦争があったという事実すら大方の国民にとっては意識の彼方へと追いやられ、ましてやその意義などほとんど理解されていない状況は、こうしたGHQによる占領政策の産物だと言っても過言ではないだろう?
だが、日露戦争の意義を理解せず、教育しないことは、その歴史的重大性に照らして許されないと思う。
そしてなぜ日本がこの戦争を戦わざるを得なかったかを理解せずに、当時の日本が置かれていた国際的、戦略的状況や、また今日のそれを充分に理解することは到底不可能である。
日露戦争は日本の国運を賭けた戦争だった。
日本はこの戦争に勝つことによってのみ、国として存続することが可能になると考えられていた。
もし負けていれば日本はロシアをはじめとする列強の植民地支配を受け、国は消滅していたかもしれない。
どう少なく見ても主権の大半は制限されていただろう。
当時の米国大統領セオドア・ルーズベルトは日露両艦隊の海戦に言及した書簡のなかで、「日本艦隊が勝利を得る可能性は20パーセントと考えるのが妥当であり、日本艦隊が敗北を喫した折には日本は滅亡の悲運に遭遇するだろう」と記している。
ではなぜ日本はこの戦争を戦わなければならなかったのか。
簡潔にその理由を言えば、日本が死活的利益を有する朝鮮半島がロシアの勢力下に入ることを阻止しなければならなかったからだ。
朝鮮半島は「日本の柔らかい下腹部に突き付けられた短刀」である。
ここが日本の潜在敵国の勢力圏になると日本の防衛が根本から脅かされるのである。
この戦略的状況は当時も今も変わらない。
例えば連合軍最高司令官だったマッカーサーは朝鮮戦争の勃発で国連軍の総指揮官として半島に飛ぶ。
そして、戦況を逆転するために北朝鮮の後背地であり、補給路である中国への爆撃をトルーマン大統領に求めて却下され、その後解任された。
彼は解任直後、米国上院軍事外交共同委員会でこう証言している。
「日本人が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が自衛の必要に迫られてのことだった」。
朝鮮戦争を戦うことによって、マッカーサーは日本が明治以降の戦争を戦わざるをえなかった戦略的理由、つまり朝鮮半島と満州を勢力圏とすることが国防上の死活的利益だったことを悟ったのである。
日露戦争はこうした日本の死活的利益が、ロシアの極東政策と衝突して起きた。
当時ロシアは不凍港を有しておらず、地中海への出口を求めてまず南下政策をとった。
だが1832年のエジプト事件、53年のクリミア戦争、77年の露土戦争でこれに失敗し、その結果極東に目を向けてウラジオストックを得るのである。
さらに日清戦争後にはドイツ・フランスとともに「三国干渉」を行い、日本に遼東半島の清への返還を要求してこれを呑ませ、返す刀で対日賠償金2億両を貸し付けていた清と秘密条約を締結してその抵当に東清鉄道の敷設権を獲得、加えて遼東半島を25年間租借し、大連とハルピンを結ぶ東清鉄道南満州支線の敷設権を獲得する。
その後ロシアは北清事変中に鉄道保護の名目で満州を制圧、さらには朝鮮半島へと食指を伸ばし、韓国の完全中立化を要求するのである。
このようなロシアの攻勢に対し、日本はある外交策を検討し、ロシアとぎりぎりの交渉をしている。
いわゆる「満韓交換」である。
伊藤博文が中心になり、朝鮮半島は日本の勢力圏、満州はロシアの勢力圏という形で妥結を狙ったのだ。
しかしロシアはこれを拒否、日本は日英同盟を締結する道を選択する。
この同盟を背景に日本はロシアに対し満州からの撤兵交渉を続ける。
そしてそれが実らず、ロシアが清との間で満州とモンゴルをロシアの保護領にする交渉を開始したという情報を得たとき、両国の国交は断絶され戦争が開始されるのである。
こうして始まった日露戦争は欧州情勢に多大な影響を与えた。
ロシアの極東方面への兵力投入に最大の危機を感じたのはフランスである。
ロシアの同盟国であったフランスは孤立化を最も恐れた。
そこでフランスは植民地問題で相互に摩擦を起こしていた英国に接近し、英仏協商を締結。
これはロシアに対する背信行為だったが、英国も「二国以上と開戦した場合は参戦する」という日英同盟の規定に従って日露戦争に参戦すればフランスとの植民地戦争になるため、その回避を優先させたのであった。
またドイツはロシアの極東権益に便乗するため、ロシアを強力に支持していたが、英仏協商を見て一段とロシアとの結びつきを深めていった。
このように戦争の勝敗が各国の外交政策を大きく左右するだけに、海外の新聞も戦争の進捗状況を逐次克明に伝えた。
そしてそのほとんどすべてが、日本の敗北を予測していた。
日本の政府首脳、陸海軍の指導者達にも日本の勝利を信ずる者は極めて少なかった。
その理由を端的に示す数字がある。
日露両国はその年間歳入比で日本が2億5千万円、ロシアが20億円、また常備兵力比で日本が20万人、ロシアが300万人と国力の差は圧倒的といえた。
ロシアの強大な軍事力、そしてそれを支える工業力、経済力に日本が大きな畏怖を抱いていた所以である。
それゆえ、短期決戦に唯一の望みをかけ、日本有利の状況で停戦に持ち込み、後は外交交渉で決着を図るというのが政府首脳、軍指導層の一致した認識だった。
満州軍総司令官の任を受けた大山巌元帥が戦場に赴く際、山本権兵衛海相に「戦はなんとかやってみますが、刀を鞘に収める時期を忘れないでいただきたい」と告げたのが、そのことを如実に物語っている。
一方、ロシア極東軍総司令官のクロパトキンは「わが陸軍はいつでも40万の軍隊を満州に結集できる。
来るべき戦争は単なる軍事的散歩に過ぎぬ」と豪語した。
明治37年(1904年)2月、戦端は開かれる。
開戦直後、日本政府は2人の要人を内密のうちに米国に派遣している。
一人は戦費調達の任を負った日本銀行副総裁高橋是清であり、もう一人は米国大統領ルーズベルトに停戦後の講和斡旋を依頼する任を負った貴族院議員金子堅太郎である。
高橋の渡米は軍費調達のための外債募集を目的としていた。
政府は戦争期間を1年とし、陸海軍は8億円、それを支える政府は4億円の戦費を要すると計算した。
インフレ等による国内経済の混乱を避けるため、2億5千万円の外債募集を決定し、それを高橋に託したのである。
当時外資の誘致に努めていた米国において高橋はこれを達することができず、英国に飛ぶ。
だが、そこでも日本不利の予測が圧倒的な状況下で日本国債を買う者はおらず、また白色人種と黄色人種との戦いにおいて、日本の戦費を調達することは白色人種(英国人)として好ましくないという雰囲気の中、外債募集は困難を極めた。
しかし高橋は屈することなく、必死の努力を続ける。
結局、日本の勝報が相次いで伝えられるにつれ日本国債の人気は上昇し、最終的に高橋は7億円余りの外債募集に成功するのである。
他方、金子の米国派遣は開戦を決定した御前会議の場で提案され、金子への説得を伊藤博文が一任された。
金子は若い頃、8年間米国に滞在したために知己が多く、とりわけ大統領のルーズベルトとは旧知の間柄だったため、この大任が与えられた。
伊藤は御前会議のあった日の夜、早速自宅に金子を呼んで説得しているが、その模様は圧巻である。
金子は米国への講和斡旋依頼が極めて困難であるとの見通しに立ち、伊藤の説得に対し渡米を頑として受諾しない。
しかし伊藤は諦めず、翌朝再度金子を呼んで渾身の説得を試みる。
「戦争を決意したが勝つ見込みはまったくない。
しかし私はもしロシア軍が九州に上陸してきたら、兵にまじって銃をとり戦う。
兵は死に絶え艦はすべて沈むかもしれぬが、私は生命のある限り最後まで戦う。
この戦は勝利を期待することは無理だが、国家のため全員が生命を賭して最後まで戦う決意があれば国を救う道が開けるかもしれないのだ。
是非渡米し、私と共に生命を国家に捧げてもらいたい」。
伊藤の涙ながらの訴えに金子は沈黙し、「渡米します」と答えたのである。
米国に渡った金子は、日本政府の意図を察して妨害を企図するロシア、ドイツと虚々実々の駆け引きを行い、幾多の試練を乗り越えてルーズベルトの講和斡旋を確実なものとした。
さらには国際法の権威である米国の大学教授の助力を得て日本政府講和条件の基礎をもつくり、期待されたその使命を全うしたのであった。
さて、開戦当初ロシアの総兵力は日本を大きく上回り、陸上兵力では日本が本土に3個師団を残すのみであったのに対し、ロシアはシベリア鉄道経由で欧州からの大増強が可能であった。
しかし事前の予測に反して日本陸軍は連勝を重ね、攻防の要である旅順要塞への困難を極めた攻撃では、総司令官乃木希典の指揮の下、多大な犠牲者を出しながらも難攻不落といわれた要塞を陥落させた。
ロシア軍の要衝を奪ったことで、日本軍は旅順港深くに停泊するロシア艦隊に二百三高地から集中攻撃を行うことが可能となり、これらをすべて撃沈した。
この戦果はロシアバルチック艦隊との海戦に臨もうとする連合艦隊の作戦立案と戦力整備に多いに資するものだった。
東郷平八郎元提督率いる連合艦隊は大胆な「T字戦法」を採用し、日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅させる。
これらは日本政府ですら予想もしない結果だった。
こうして開戦後1年6ヶ月を経て両国の戦闘は日本有利の状況で停止し、講和が模索され始める。
このとき、兵力動員108万、戦死者4万6千、負傷者16万、投入した軍費19億5千万という莫大な消耗に喘ぐ日本には、もはや戦争を継続する国力は残されていなかった。
一方のロシアは、国内に革命への胎動を孕みながらも未だ膨大な陸上兵力を残していたため、不利な講和条件ならば拒絶し戦争を継続する意志すら示していた。
このような状況下で、講和全権大使の大命を受けたのが外相の小村寿太郎であった。
小村の全権大使としての重責は筆舌に尽くしがたい。
彼は正に板ばさみであった。
一方には戦争継続の威嚇すら示すロシア、もう一方には勝利に沸き、ロシアからの多額の賠償金と領土割譲を求めて沸く国内世論。
今日の我々には想像できないほどの、戦争に「勝って」沸騰するナショナリズムが当時はあった。
小村の任務の難しさは、ロシアとの講和交渉を実らせると同時に、国民の不満の暴発をせめて抑えることができる講和条件をいかに詰めるか、という点にあったのである。
日露戦争終結の可否は偏に小村の双肩にかかっていた。
小村はロシア全権ウィッテと対峙し、文字通り身命を賭してこの交渉にあたった。
そして最終的に、韓国を日本の勢力圏と認めること、南満州鉄道の権益や関東州の租借権を日本がロシアから譲り受けること、さらに南樺太を日本領とすることを内容とする講和条件でロシアとの合意に至り、明治38年9月、米国のポーツマスにおいてルーズベルト大統領の仲介で講和条約が締結された。
ポーツマス条約は、停戦時の日露両軍の勢力比を考慮すれば日本にとって最善と判断できる内容であり、それ以上を望むことは極めて困難であった。
だが、軍の勢力比がいかに日本に不利かを知らされていない国民世論は、ロシアから賠償金を得ることができない講和に激昂する。
新聞各紙の論調も「この屈辱」「敢て閣臣元老の責任を問ふ」「遣る瀬なき悲憤・国民黙し得ず」と日本の外交姿勢を責め、国民が一斉に立ちあがり暴動を起こすのも時間の問題、と述べる記事さえあった。
現在使用されている大半の教科書では、このときの「日比谷焼き討ち事件」の記述が一行程度で済まされている。
しかし、それだけで往時の様子が充分に伝わるのかいささか疑問なので、その模様を若干克明に記してみたい。
まず、講和反対の運動は全国各地で開催された。
とりわけ、元衆議院議長河野広中を座長とする講和問題同志連合会は政府攻撃と条約破棄の運動方針を決定、小村全権に「自決・陳謝」を求める電報を打つ等激しい抗議行動を起こす。
全国各地で大会が次々と開かれる中、9月5日には講和条約を不服とする群集三万が日比谷公園正門前に殺到。
警察の制止を振り切って公園内に乱入し、河野らが中心となって大会を開催、講和条約破棄と満州派遣軍の総進撃を決議。
その後群集は講和条約支持を掲げた国民新聞社を襲い、これを破壊。
さらに内務大臣官邸を襲撃し、投石、乱入、放火等暴虐の限りを尽くす。
暴動は東京市内の警察署、派出所の焼き討ちへとエスカレートし、警察署七、派出所二百三十一が焼き払われ、破壊された。
この数は市内の派出所の七割に相当した。
この事件で東京では約二千名が逮捕され、三百八名が起訴された。
また神戸では湊川神社境内の伊藤博文の銅像が引き倒され(伊藤は枢密院議長という立場で「軟弱外交」を指導したと見なされていた)、首、手足を叩き壊され、四、五百名の群集によって数町先まで引きずられた。
こうした一連の事件の責任を負い、警視総監は辞職、また内務大臣芳川顕正も辞任するに至り、それによって漸く全国の騒擾は収まった。
これは内乱に近い状態だったといえるであろう。
ここまで記して、日露戦争が歴史上の大事件だったことがお分かりいただけると思う。
ロシアという世界最大の陸軍力、英国に次ぐ海軍力を誇る国に日本が勝ったこの戦争は、世界史の流れを変えるほどの影響を与えた。
今日、我々日本人が人種差別を意識する機会は少ないが、今以上に人種差別に満ちていた当時、史上初めて有色人種の国家が最強の白人国家を倒したという事実は、世界中の国々にとって俄かには信じ難いことだったのである。
白人には先天的能力において劣る、ゆえに抵抗など到底無理、というのがこの時代の有色人種に共有された通念だったのだ。
それを根本から打ち砕いたところに、日本の勝利の驚異的意義があった。
「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望をいだくにいたったのです」(孫文)。
「もし日本が、最も強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとするならばどうしてそれをインドがなしえないといえるだろう?」(ネルー)。
植民地支配を受けてきた多くの有色人種国家が、日本の勝利によって白人支配からの脱却への兆しを感じ、大きな希望を抱いたことをこれらの言葉が如実に物語っている。

[ 結論 ]
ところで、日露戦争が期せずして招いたもうひとつの歴史の不可抗力を描かねばならない。
すなわち講和の労をとり、日本に有利な条約締結に助力を惜しまなかった米国が、戦争終了とほぼ同時に日本を仮想敵国として位置付け、対日戦争の作戦計画を作成し始めたことである。
日露戦争の僅か六年前にあたる1898年、米国は対スペイン戦に勝利してフィリピンを獲得する。
ロシアを破った日本の眼前には、この米国の新領土が位置していた。
ルーズベルト大統領はロシアのバルチック艦隊を壊滅させた日本の海軍力に瞠目し、東郷元帥率いる連合艦隊が米国太平洋艦隊を襲うという悪夢を抱きはじめる。
1904年、日露戦争開戦の年、米国陸海軍統合会議は仮想敵国別に戦争シュミレーションプランを作成する。
ドイツを仮想敵国としたものはブラックプラン、英国はレッドプラン、日本はオレンジプラン、南米はパールプラン、カナダはクリムゾンプラン、メキシコはグリーンプランと色分けされたものだった。
このうち、対ドイツのブラックプランと対日本のオレンジプランが改定を加えて実際に残り、第二次世界大戦ではそのまま実行されることとなる。
ここで少々対米関係への思慮を記したい。
ロシアに勝利し、米国にとって大きな脅威と映り始めた日本。
当時も今も日米が置かれた地理的状況は変わらない。
だが両国を巡る戦略的状況は大きく違う。
今日の戦略的状況は日米の国益上に一致点を生み出し、両国は同盟国となっている。
では日米は現在に留まらず、永遠に同盟国であろうか。
答えは否であろう。
同盟という関係を両国に選択させている戦略的状況は不変ではないからだ。
この問いは我々に極めて重大な検証を課すのではなかろうか。
おそらく我々が生きている時間軸の中で、朝鮮半島は統一されるであろう。
また共産党政権下の中国は資本主義経済の進展と相俟って統一性を失っていくだろう。
同時に台湾と中国との関係には何らかの変化が見られるだろう。
すなわち、日清戦争から日露戦争を経て大東亜戦争に至るまで、国防上の死活的利益が存在するゆえに日本が関わらざるを得なかった地域に、いま大きな戦略的変化が訪れようとしている。
一方で、米国はその国益上、今後も末永くアジア地域への米軍駐留を継続するだろうか。
米国世論がそれを支持し続けるだろうか。
戦後五十年間、日本は米軍のプレゼンスにより、自身が大東亜戦争前に国防上関わらざるを得なかった地域への関心を「棚上げ」にし続けることを許された。
それを可能にした前提条件が今後とも保たれる保証は薄れつつある。
実際に状況が変化したとき、日本は再び国益を保持するため、「柔らかい下腹部に突きつけられた短刀」から「その後背地」へ、冷静な戦略的知性の目を向けなければならなくなろう。
そしてその時にこそ、日米双方の国益の体系と核心を充分に分析し、互いの国益が衝突することを何としても回避すると同時に、米国との新たな戦略的関係を築く必要に迫られるであろう。
その叡智を生み出す作業は我々の世代に課せられたテーマに他ならない。
当時の国際社会において、国家間交渉の最後の局面で国益を貫くためには武力に訴え、また国家を防衛することが常識であったという事実を、我々は日露戦争から学びたい。
その努力なくして国家の存続は不可能であった。
同時に今日に生きる我々は、交渉によって互いの国益を調整し、戦争を避ける極力の努力をすることの重要性とともに、国家相互の国益追求がもたらす摩擦のエネルギーを低減させることの肝要さ、国力のバランスを維持することの重要性を改めて確認したい。
誤解を恐れずに敢えて言いうと、現在の日本を取り巻く情勢を見る限り、私は近い将来祖国に一旦緩急の事ある恐れなしとしない。

[ コメント ]
我々はこの国に生まれ、この国の歴史の中で自我を形成した者として、祖国が侵略を受けた際、子供たちにこの国を継承するために、国家の運命を守り国家を存続させようという決意を有しているだろうか。
今それを自らに問わねばならないのではなかろうか。
僅か百年前、日本の防衛に全身全霊を賭けた祖先、軍人、政治家の存在が、我々の生をもたらしてくれた事実を直視し、身を賭して国を守った先人の努力に深い感謝と敬意を捧げながら。

9.参考記事

<書評を書く5つのポイント>
1)その本を手にしたことのない人でもわかるように書く。

2)作者の他の作品との比較や、刊行された時代背景(災害や社会的な出来事など)について考えてみる。

3)その本の魅力的な点だけでなく、批判的な点も書いてよい。ただし、かならず客観的で論理的な理由を書く。好き嫌いという感情だけで書かない。

4)ポイントを絞って深く書く。

5)「本の概要→今回の書評で取り上げるポイント→そのポイントを取り上げ、評価する理由→まとめ」という流れがおすすめ。


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