読書の秋に、みんなの好き?な、あの話の本などいかが!
メディアパルさんの「好きな本について語り合おう」に参加させて頂きますね(^^)
「うんこ!」サトシン(文)西村敏雄(絵)
いつまでたっても子供だと、あきれられても、好きなものはしょうがないwww
例えば、不惑を超えて、その魔法の言葉が連呼されている最中、「うんこ」と「うんち」はどっちが固いだの、黄色いだの言って、口元を綻ばしている自分を情けなく思うことがないわけではない(爆)
が、それでも、なかなかうんこから卒業できないし、うんこを連発する子供衆たちに、親近感をおぼえて、笑ったりしていますw
それは特別なことであろうか、と思っていたら、やはり、そんなことはなかった。
子供はわかりやすいのが好きだし、それは広い世代にも通じるってこと。
みんな頭の中がウンコだからかもしれませんが(爆)
少なからぬ人々が、隠してはいるが尾籠な話を好きであることは、以前からうすうす気がついてはいたのですが、尾籠な話こそ、万葉の昔から伝統的に日本人に好まれる話題であった、とまでは、この本を読むまで知りませんでした。
そのことを教えてくれた、今日、ご紹介する本が『古今黄金譚 古典の中の糞尿物語』(林望著、平凡社新書)という、書物です。
その魔法の言葉にちなんだ本ですねw
自分はまったく興味ありませんが(痛いのは嫌いです!)、SMプレイではうんこのことを「黄金」と呼ぶそうです。
それはどうでもいいのだけど、うんこを黄金と呼ぶのはスカトロの専売特許ではもちろんないんだとか。
では、なぜ、うんこは黄金なのか?
ん?
そう、うんこが汚穢でありかつ神聖であるとされた、日本人のうんこ観から、古今黄金譚は語り始めています。
今ではすっかり忘れていましたが、農耕民族たる日本人にとって、うんこは大切な資源だったんですよね。
近所の畑に行くと、肥溜めがあり、なんだか惹かれたものです(爆)
私が子供の頃、友達の友達が肥溜めに落ちた話は、笑い話の定番でした。
かくゆう私も、ドブ側に落ちて、首までつかり、大笑いされたのは、内緒ですよ(@@)
それが、日本という社会だったんでしょう!
そういう日本だから、古典にはうんこの話が満載で、だから、うんこには哀愁感いっぱいで、叫んでしまうんでしょうね~
万葉集にも、こんなにうんこの歌があることを、この本は教えてくれます。
それが、中国から洒落た文化が入ってきて、文化が上流階級の人々に独占されるようになると、さすがにうんこの話だけに憚れるような空気が醸成されてきて、古今集以降の歌集にはうんこを歌った歌はないのだそうです(へ~)
が、うんこは不滅です!
な、なんと!
開けてびっくりたまて箱?
歌にはなくとも、歌人には屎子とかなんとかいって、うんこを表す名前の人がでてくるそうです。
しかも、昭和の始めまで日本では、子供の名前や幼名に屎だの糞だの名づけることが珍しくなかった、新事実が(爆)
つまり、麗子とか美子とかの名前をつけると、本人の美醜にかかわらず、言葉に幻惑されて悪霊なんかが誘拐にやってくるなどということがあってはならないから、わざと、うんこちゃん、などと呼んで、悪魔祓いをしていたらしいそうですよw
また、竹取物語にはじまり、今昔物語集、宇治拾遺物語、紫式部日記、時代は下がって井原西鶴まで、日本の古典は、うんこのオンパレードで、なんで、高校の授業で教えてくれなかったのか、まったく、残念です。
『竹取物語』(角川書店編、角川ソフィア文庫、ビギナーズ・クラシックス)
『今昔物語集』(角川書店編、角川ソフィア文庫、ビギナーズ・クラシックス)
『宇治拾遺物語』(角川書店編、角川ソフィア文庫)
『紫式部日記 日本の古典』(角川書店編、角川ソフィア文庫、ビギナーズ・クラシックス)
『好色一代男 改版』(吉行淳之介/訳、中公文庫)
そういえば、おなら、いわゆる「屁」に対してもおおらかだったようで、井原西鶴の「好色一代男」の中に、次のような川柳があるらしいですよ(^^)
屁にさめて 香る糞舟 ぽんと町
意味は、京都先斗町の遊郭で一夜を過ごし、ふと横に寝る遊女の寝屁で目を覚ましたら、布団の中だけでなく、横を流れる高瀬川の糞船の匂いが漂ってくる、ああもうこんな時刻なのかなあと言うことらしいのですが、実に、おおらかですね~
こんな内容だと、もしかしたら、古典の授業が好きになったかもしれないのに、ね~www
そうそう、極めつけは、落窪物語なのだそうです。
『落窪物語 現代語訳付き 上/下 新版』(室城秀之/訳注、角川ソフィア文庫)
何故か?と言えば、落窪とは、そもそも、厠のことではないか、というのがフリーランスの日本文学者である、著者林望先生の独創的解釈です(へ~)
繰り返しますが、だいたい、日本の高等の古典教育も、たとえば、うんこの話だけで教科書を作ったりしちゃったりして、それで、掛詞や強調表現、単語や助動詞の活用などといったことを教えれば、関心が高まることは疑いを得ないって、思いませんか?(^^)
大人の悪いところは、自分の頭の中で枠を決めちゃうことなんじゃないかって気がします。
だから、そんな、うんこネタなどではしゃげる子供衆のみんなが大好きですね~迷いがない!(爆)
世間の頭の固い、そんなつまらない大人に負けて、自分でつまらない大人になっちゃダメだってことなんでしょう。
それができないところが、教育のある意味、限界なのかも(^^)
日本に昔からあることば遊びの一つ、こんなシャレのひとつを日本語教育をする際に取り入れてあげたら、面白いと感じるんだけど。
一瞬のうちに教室内に明るい笑いをもたらすシャレの効用は、学習者の不安、緊張などを取り除き、よりよい日本語学習環境を創るのに一役買うのではないでしょうか?
本当に面白いことは、面白い人を見習って自ら学ぶしかないのかもしれません、ね。
コンピューターのようにゼロイチでは割り切れない、そのあいまいな部分をどうやって自分の頭で考えて進捗を図り、折りあいをつけていくか。
大袈裟に言えば、そこにこそ人生の醍醐味があると感じるんだけど。
人生のあいまいさを楽しくしてくれると思いませんか?
あまり役には立たない本ですが、日常の時間を豊かにしてくれるところがいいのかなって思える本です。
本書は、本当にお勧めの本です!
これを読んで、伝統に立ち返り、どうどうと人前で、そう、うんこの話ができる日本人になろう!
って、これ以上に、もっと役に立たないかもしれない本?を、最後に紹介しておきますね(ニヤリ)
タイトルからして、買うのを躊躇う内容ですが、な、なんと!、第7回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作品でもある『糞袋』(藤田雅矢/著、新潮社)です。
『糞袋』(藤田雅矢/著、新潮社)
享保時代の京都を舞台に“肥えとりはん”の少年の成長物語をジュースキントの『香水』にあやかった感なきにしもあらずの糞尿譚。
『香水―ある人殺しの物語』(パトリック・ジュースキント/著、池内紀/訳、文春文庫)
視覚と嗅覚では、視覚の方が刺激が強いと思われる方も多いと思います。
でも脳の中の反応は逆。
匂いの感覚器官は海馬の臭球という部分を通ってダイレクトに脳に届きます。
でも視覚情報は見ているものを組織化して解釈するために、あちこち巡ったあとでやっとこさ海馬に届くのです。
脳にとっては匂いの情報によって呼び覚まされる記憶の方がずっと鮮やかなのです。
昔の恋人がつけていた香水を嗅ぐと、当時の思い出が鮮明に蘇ったりすると言いますよね。
そう、それ。
だから、本書も読む人の想像力を刺激するバーチャルリアリティ小説としてお薦めします。
今ひとつ匂いの記憶が蘇らない方でも、奇想天外なストーリーと著者の優れた描写力で引き込まれてしまいますよ(^^)
閑話休題。
畳み掛けるような糞尿の描写に、奇をてらっているとの印象を持ってしまいますが、話が進むにつれて、糞尿が黄金に等しい価値を持つ世界を作りだし、絶対的な価値観など存在しないということを、訴えています。
そうそう、彼の乃木大将もおならの歌を歌っているそうですよ、探してみてください(^^)
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