答え、結果が欲しいから問題を作る。
おはようございます。音楽家の河野一之です。
今日の題名「答え、結果が欲しいから問題を作る」、この内容は恐らく河野を知っていて発言をポジティブに受け取れる人以外には不愉快に感じる内容かもしれない。
しかし、自分の頭の整理、インプットした内容をアウトプットすることによって更に具体化するために書いてみる。
誰かを傷つけたり、驕った気持ちで書いているわけではなく、全て自分の体験に基づいたフェアな視点から書かれているという前提をお持ちになって読んでもらえると嬉しい。
もくじ
普通なんて糞食らえ、退屈な日常なんていらない
最も古い記憶で小学生だった頃、今でもよく覚えているけれど、確か土曜日の午後(当時は土曜日午前は授業だった)か日曜日の休日
特に誰とも約束などしておらず1人で暇な時間を過ごしていた。
社会や身の回りの世界は忙しなく動いている気がするのに僕だけ暇、やることがない。退屈だ。焦燥感と退屈への不満で心はざわついていた。
この最古の記憶から20年間ぐらいずっと僕の心の中には
・退屈はいやだ
・普通はいやだ
・刺激が欲しい
こんな欲望というか退屈、普通への拒否反応、何か刺激的なことへの飢えがいつもあったように思う。
つまり刺激に溢れ、常にワクワクし、あまり多くの人が体験したことがないような僕だけの世界で合って欲しい
そういう風に願っていたようだった。
このような願いを持っているということは、無意識的に日々の様々な選択を”そういう世界”になるような選び方をしていたと思う。(人間の行動のほぼ大体は無意識ゆえ)
すると世界は答えてくれた。
半端ではない答え方
こちとら20年近くずっと退屈や普通に嫌悪感を持ち、刺激に渇望をしていた。その願いはかなり強固なものになっていたようで僕の人生はジェットコースターのようにまさしく退屈や普通とは別物になっていく。
つまり僕の願いに大して”ちゃんと”世界は僕の人生、世界に退屈や普通とはかけ離れた、心や身体を病むぐらい刺激的な大問題たちを用意してくれたわけだ。(妻曰く「ドラマになるし、本も書けるね」との事なのでこの具体的な内容はいづれ)
答えを得るには問題が必要
よく勉強させてもらっている心屋仁之助さんのBlogでこんなのがある。
「問題は答えのためにある。」、僕の考え方だと
答えはこの場合
退屈や普通ではない、刺激的な人生
この答えを欲したがために
大問題たちが発生した
こういうこと。
学校でも知識を得るため=答えを知るために先生たちはテスト=問題を作って生徒たちに解かせるよね。
人生を良いものにしたい、幸せが欲しい=答え
この答えに行きつくために世界はちゃんと問題を用意してくれる。
というか僕の経験上「自分自身が問題だと感じることを用意してくれる」という感覚。なので言い換えれば、それを「自分が問題だと認識しなければそこには問題は発生していないと自分は感じる」ということになる、でもそれだと答えも得られない。
だから誰しも何かしらの答えが欲しくて、問題を発生させる。
人は大団円が好き
N曲線という感情の曲線がある。この曲線がNの形になればなるほど人は感動したり大団円を感じる。起承転結のシンプル版だ。
例えばドラゴンボール、
・最初孫悟空とブルマが出会い様々な冒険を楽しくする。
(ここがNの字の一番左の上に伸びる棒、物語が始まり登場人物の紹介や物語の設定の説明で楽しく気分も上昇する。)
・物語が進み悟空が敵に負けたり仲間の誰かが殺されたりする。
(Nの2本目、右斜め下に加工するところ。苦しさや悲しみ、大問題が発生する。)
・その後修行をしたり、ドラゴンボールを集め仲間を復活させ強敵を倒しHappy End.
時にはその強敵がライバルとして仲間になり、更なる強敵と共闘したりする。感動や胸熱の場面だ。(Nの棒の3本目、また上に上がる箇所。)
ワンピースも楽しい冒険→強敵現る→負ける→修行→勝つ→次の楽しい冒険へ。または楽しい冒険→壮絶な過去→過去の清算/癒し→次の楽しい冒険へ
とN曲線を描いている。複雑なたくさんの伏線を込められながらも、美しい起承転結だ。
なので例えば金管バンドで言えば、
N①
選曲や次の演奏会の屋台骨を作る
N②
曲を練習していく中で難所があったり運営に関して様々な課題や問題が生まれる。
N➂
演奏会でお客様に喜んでもらえ、打ち上げでも楽しい時間を過ごし
Happy End.
なのでもしこのN➂の楽しさや開放感、大団円具合を大きくしたい場合はその前のN②を強烈にしたらいい。
曲をものすごく難しくしたり、バンドの方向性や運営関連、日々の練習に様々な問題を発生させるのだ。こうしてN字の斜め下降をどんどんすればするほど成功した時のN字の最後の上昇、上への飛距離は上がる。
バンジージャンプも飛ぶ距離が長いほど跳ね返りは上がる。でもその分跳ね返りが発生する時の衝撃は大きくキツイものになる。
つまり最後の大団円を得るための直前の解決がとても大変になるのだ。
だが人はそこに感動を得るのも確かである。
まとめ
じゃあ
・世界中で起きている大災害も「誰かが望んだものなのか?」
・今本当に病や障害で苦しんでいる人たちも「本人たちが望んだものなのか?」
これに関してはそうかもしれないし、そうでないかもしれないと書く他ない。でも心屋仁之助さんや感情のN字曲線の話を提示した西野亮廣さんの考えを元に自分の体験を照らし合わせて見てみると
僕はそうだった。つまり答えを求めたから問題が起きていたという結論に至った。
という話。
またその問題が起きている時にそれに気付けるのかといったら至難の業だろうと思う。それは無意識を意識化する作業に等しいからだ。
しかもこれらの結果を判断するのは、起きた後数年後に自分で消化し結論づけることであり、実際にその問題が起きている人以外が外から何かを言えることは何一つないのだ。全ては結果論だ。
この事象はもっと深堀できそうなので引き続き考えていきたい。
現時点で「じゃあどうするべきか?」の問いに言えるのは
足るを知る、今すでにある物事に感謝をし幸せを感じる
これに尽きる。足りないと感じ、幸せはどこか?と探すから問題はやってくる。
わざわざ自分の身の回りに問題を増やし、それを解決して回る堂々巡りなどしなくてもいいのではないかと学んだ。
足るを知り、在るがまま流れるままに
時が来れば変化も訪れよう
Thank you
Kazz
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