言葉が「崩れる」瞬間ーーベン・ラーナー『Topeka School』
1997年。カンザス州の州都トピカの高校生アダム・ゴードンは、ディベート競技のエースで、全国大会で上位に入るほどの実力を持つ。当時この高校だけでなく、全米各地で多くのディベーターが選ぶ戦略として「極めて速いスピードで話し続ける」というものがあった。SpeedとReadを合わせ「Spreading」と呼ばれるこの戦略は、一度聴いただけではわからないような多くの情報を、息もつかないほどの速さで話すことで、対戦相手が答えに窮し、減点させることを狙うものだという。
これを「対話」のための技術と言えるだろうか? 相手を黙らせるための、対話しないための論術ーー当時から問題も指摘されていたようだが、主人公アダムもまた、競技のために、自らの発話のスピードを極限まで高めようとしていた。
しかし、その訓練のある段階で彼は奇妙な感覚に襲われる。まるで「彼が言葉を話しているのではなく、言葉が彼を話しているような」感覚だ。
ベン・ラーナーの3作目の小説「Topeka School」の主題のひとつは、人間の発話と、その限界だ。洪水のような言葉の過剰さ、議論の成り立たなさ、それに続く沈黙ーーいまや日常化した感のあるこうした言葉の無力さのルーツを探るため、ラーナーは1990代へと時を巻き戻し、米中西部に暮らす家族に焦点をあてる。それは自身と、自らの両親の記憶を辿り直す旅でもある。
1979年生まれのラーナーはこれまでも多かれ少なかれ、自らの分身を語り手とする小説を発表してきた。当初は詩人として出発し、2006年の詩集『Angle of Yaw』で全米図書賞候補となる。その後発表された小説2作ーー『Leaving Atocha Station』(2011)と『10:04』(2014)ーーは、いずれも私小説的な枠組みを使って、やはり言語の可能性やその限界、フィクションと事実、詩と散文といったテーマを、同時代の事象ーーイラク戦争やハリケーン・カトリーナーーを背景として考察する作品だった。後者は白水社から邦訳が刊行されている。
『Topeka School』の主人公、アダム・ゴードンもまた、ラーナー自身の分身だ。終盤で成長したアダムは詩人としてNYで生活している。しかし、ラーナーはアダムを物語の中心に据えつつ、母親ジェーンと父ジョナサンの語りを交錯させる。それによって小説は、どこか「自分語り」にとどまっていた前の2作よりも、多声的で、幾何学的な物語となっている。
ジェーンとジョナサンはともに精神科医だ。1960年代の社会的騒乱を経て、東海岸からトピカへ移り「Foundation」と呼ばれる研究と臨床の両側面を持つ施設で働く(これも大筋としてラーナー自身の家族の半生を反映しているようだ)。カンザス州は保守の色濃い土地だが、「Foundation」には様々な場所から移り住んだ研究者や精神科医たちが幾分奇妙なコミュニティを作っている。
アダムが産まれたあとの家族の生活にはしかし、暗い影が落ちる。大人になったアダムへの手紙のようなかたちで語られる母ジェーンの章、そして自らの記憶を一人称で語るジョナサンの章で、その影の正体が徐々に明らかになっていく。
ジェーンはフェミニズムを核とした自らの初となる著作の出版後、トピカの反同性愛者団体(「the Men」と表現される)から、あからさまな性的嫌がらせを受ける。さらに、自らの父親から幼少時に受けた暴力の記憶がトラウマとして、たびたび彼女の心に戻ってくる。
ジョナサンは臨床医として、強い疎外感を抱える白人の少年たち(「Lost Boys」と表現される)との対話にあたっている。他方で、過去、台湾で経験したあるできごとの回想を通じて、ジョナサン自身が、自身の中にある男性としての暴力性を意識し続けていることが明らかになる。男性がうちに潜める弱さ・疎外感が、もう一つの主題として、小説の底流をなしている。
家族の物語の間に、アダムの同級生で知的な障害のある「ダレン」という名の少年のエピソードがイタリックで挿入される。ダレンは、ある出来事の中で、別の女子生徒に重い障害を負わせてしまう。なぜそれが起きたのか、あるいはなぜダレンを止めることができなかったのかという感覚が、アダムの心に影を落とす。そして時がたち詩人となったアダムはダレンと思いがけない形で再会することになる。
本書が発表された2019年はトランプ政権期の後期にあたる(最終章には、移民政策をめぐる大統領令への抗議活動が、直接的に描写されてもいる)。出版直後、これを読んだアメリカの読者は、まずは次のように感じたのではないかと想像する。
トランプを大統領にした「なにか」は1990年代すでにこの国に芽吹いていた。相手を黙らせるための言葉、白人男性の疎外感、あるいはエリートたちのナイーブさ、こうした全てがアメリカの現在を用意したのだ--そして私たちはそれに気づかなかったことのツケをいま払っているのだ、と。
そう読むことはできる。実際、そうした声とともに「作家の新境地」として本書は高く評価され、2020年のピュリツァー賞の最終候補ともなった。
ただおそらく、それほど単純ではない。
上述したように物語には、この記事の冒頭で紹介したような「言葉が壊れる瞬間」が繰り返し現れる。ある閾値を超えた時に、話していた言葉が意味を失い、発話が崩壊する瞬間。喋りては黙り、あるいは沈黙し、言葉によるコミュニケーションの限界に直面する。
母親のジェーンにもそれは訪れる。最も親しいFoundationの友人であるシーマに自らの父親をめぐる記憶について打ち明ける場面で、ジェーンの言葉は、突然意味をなさなくなり、どもりながら、同じ言葉を繰り返してしまう。けれど彼女は、その後で、こう感じる。
ラーナーがこの小説で試みようとしたことは、ある程度までこの言葉に集約されていると思う。言葉が飽和し、崩れてしまった世界で、新しい言語の可能性を探ること。その可能性を、作者はまさに言語が意味をなさなくなるそのプロセスの中に見いだそうとしている。ラーナーは「Spreading」のなかにさえ、新しい言語が生まれる予感を見ている。
ところで、ベン・ラーナーが詩人として自身への影響の大きさに度々言及してきたのが、ジョン・アシュベリーだ。20世紀後半を代表する詩人のひとりで、平易な言葉で抽象的な詩を描くアシュベリーを、彼は「文学的ヒーロー」とたたえてきた。
日本では思潮社から選集が刊行されているほか、近年新たに長編詩も邦訳された。(『凸面鏡の自画像』左右社、2021)。前者の選集から、ラーナーの小説のスタイルへの、そして『Topeka School』の物語との呼応が感じられるひとつの詩を引用したい。1970年の「春の二重の夢」の中の「唄」から。
書誌情報
Ben Lerner
The Topeka School
Farrar, Straus and Giroux, 2019
https://us.macmillan.com/books/9780374277789/thetopekaschool
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