自由・孤立・ワインおよびチーズ(アイデンティティについての考察)
本稿は「もし何でも叶えられる魔法が使える神様が現れたら?」というテーマを元に私が19歳のちょうど今頃に書いた手記と、29歳になった筆者が考えたアイデンティティについての思考をめぐるエッセイ?的なものです。
「神様、チーズをください」はほとんど原文ママで載せていますが、全体的な意味を損ねない程度に一部、補足として文章を追加しています。
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後半の「余、アイデンティティの普遍性について」は、「神様、チーズをください」に対するセルフライナーノーツ的なアンサーです。
自己同一性の在り方っていうか、人間関係における自分自身をどうしたら良いか悩む方にとってのなんらかのアレになるかもと思い公開しました。また、スラヴォイ・ジジェク『真昼の盗人のように』の読後感想でもあります。
神様、チーズをください
神様からはチーズを貰いたい。青カビタイプの、ロックウォールとか。本当は無限に一人で使える時間をいただけたら嬉しいのだけど、それって人間である私にどうこう出来るものかどうかわからないので。
いやどうしてこういうことを急に言い出したかといいますと、私が他者に求めるのはその程度のことであって、マジックではないということを示したかったからなのです。
もし自分の目の前に神が現れて、なんでも願いを叶えてやると仰ったとしたらあなたは何と答えますでしょうか。財産、安息、才能、空を自在に飛べる力・・思い描く欲望や夢は色々とあると思いますが、それって要は、「自分以外の他者に何を求めるのか?」ということではないかと思うのです。
いやそもそもわれわれが「神」を希求する時、われわれは人間を超えた、不満だらけの世の中の全てを変えてくれるような存在自体を強く求めていたりするのでしょうか。
無神論者の言う”神なんて居ないんだぜ”という台詞は奇跡を盲信することに対する否定、つまり言い換えれば”奇跡を信じるのではなく、自力で事を成すのだ”という戒めであると取れるような気もします。
同じような文脈でアートや音楽、人間関係で言うと、親友も恋人も・・たとえそれが一番近しい”他者”たる家族であったとしても、個人以外のものが個人を救うことは根本的に不可能である、だから困難というものは誰でもない自分が直面するものであり、最終的には自分自身の力で乗り越えなければならないものなのだよ、といった警告なのではないでしょうか。
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私はチーズかワインをいただければそれで満足です。両方とも私には必要な嗜好品ですが、どちらか一つあれば片方を買うだけの負担が減るので、”物”であれ”者”であれ、自分以外に求めるものはそれぐらいでいいと想っています。
2009/12/4 (19歳の自分が書いた文章)
余:アイデンティティの普遍性について
「自分以外の他者に何を求めるのか?」「私はチーズかワインをいただければそれで満足です。」「”物”であれ”者”であれ、自分以外に求めるものはそれぐらいでいいと想っています。」
マルクスが定義した「自由・平等・友愛、およびベンサム(いわゆる俗物的なものの象徴として)」がブルジョワ的な人権だとするならば、君の定義するアイデンティティは、さしずめ「自由・孤立・ワインおよびチーズ」だったと言えるかもしれない。
他人に求めるのは嗜好品、その負担を減らす程度のコミットという発言については、自意識を他者に阻害されることを「スポイル」と称し、またそれを恐れ、他者を退けていた・・ポピュリズム的アイデンティティに対する防御反応(翻せば、他者に対する「誘惑」と戦う自分自身)が見て取れる。
ただしそれは適切なアイデンティティを欠いている、何故なら、それは、他人の存在を考慮されている以上は、対置される「他者」への否定でしかないからだ。君はそれに気がつくのにあと10年かかる。
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結局のところ、これは自分自身へのアンサーになるわけですけれど、自分自身がアイデンティティの特殊性(ASDやら、IQ130以上やら)に悩むことについての解決方法を、私自身、(自分自身も含め)否定することにしか見出せなかったところがあります。
例えば、自分自身、言語を理解することは非常に得意な反面、会話によるコミュニケーションにおける物事の理解が弱い割と典型的な「ハイパーレクシア(過読症)」である点について、この症状は一般的には「ギフテッド」と呼ばれたりもしますが、
保育園を卒園する頃までには図鑑が読め、簡単な英語の筆記・会話ができ、小学校一年生初期の算数や漢字の理解があった自分自身は、どこの瀬にも居心地の悪さを感じていて、保育園時分は同輩について「この程度の言葉が理解できないのか」というもどかしさを感じていました。
「どうして自分は人と違うのか?」ということは、決して思い上がりではなく、孤立していた10代の自分を指して、きっと人と違うから世間からリジェクトされているのだ、という被害妄想に近かったのかもしれません。
この自分自身の特殊性について、アイデンティティ・ポリティクス的な解決を見出すとすれば、それは(社会に迎合するという意味で)私自身のアイデンティティを消滅させるか、それとも、自分自身は特殊であると認め、社会から孤立するか、この二項対立でしか考えて居なかった点に、私自身の甘さがあったと感じています。
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「われわれとは、あるがままのわれわれ自身であるし、であるがゆえに人間である。そのため、他の人間がどのように振る舞うかは気にしない」というのが民族的アイデンティティであるように、本来の(宗教的)原理主義者が他宗教および無信仰の人間を意に介さないように、アイデンティティとは本来的な意味では他人に阻害されるものではない。
失いそうになって初めて気がつくものがいわゆる「本当に失いたくないもの」だとして、その危機に瀕するまでは、基本的にはそれが何かは考慮されない、われわれは失うものを創り出す、というのがアレンカ・ジュパンチッチの弁ならば、
私自身に必要なのは他人に対する欲望に打ち勝つことではなく、つまりは自己を著しく阻害される形で他者と関わるわけでも、またその逆に他者の否定を以て自己を他者の阻害から護るわけでもなく、
それすらも凌駕する新しい「クリシェ」を自ら創り出すことなのであって、つまりそれは、私自身であることを社会的システム、および他者の中に、それを阻害しないかたちで認められること、それがアイデンティティの在り方で一番自然なのではないか?
今ならばそう思えます。
ですが、それに気がつくのに私自身は29年かかりました。(今でも正しい意味で気が付いているのかは確証が持てません)
では、私自身の喪失に伴い立ち上ってきた「私自身」とはなんなのか?
それは、このアートを愛する心であり、音楽を美しいと愛でたり、現代思想に触れたり、何より思考する自分自身である・・例えば、ピート・ドハーティが好きだったり、萩原朔太郎のように「何がどのように好きなのか?」を表現する自分自身なのだ、と今の私は考えます。
人間との関係性を築くのに自分を偽る必要もないし、また過度に自分自身を誇示する必要もなく、あるがままであれば良い、というのは非常に曖昧でよくある慣用句のように聞こえますが、
私自身とは、この思考する私自身そのものである、そのように再び断言できることを嬉しく想うなど。
2019/12/10 (19歳の自分に対する29歳の自分からの回答)
※アイデンティティについての参考図書および引用