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Anything Goesから植民地支配とディスラプションを俯瞰する(最近読んだ本5冊の感想)

テクノロジーの発展が人間の雇用を奪うなんていうことは、昔(活版印刷が発明された頃、など)から言われていますし、歴史上、実際に起きていたことでもあります。ただ、「AIによる失業」が陰謀論的に囁かれている昨今、そもそもそれは根本的にどういうことで、我々には何が必要か?ということを考えなければならないと個人的には思っています。

しかしながら、あらゆることが「自己責任」的になっている今の瀬において、スキルのない労働者や、障害をお持ちの方、あるいは様々な事情があり社会(的な労働のシステム)からあぶれてしまう層はどうなるのでしょうか。

なんてことを考えながら、個人的に読んだ本(経済学、行動経済学、心理学、現代思想)の中で心に残ったものを5冊選びました。再読も含むので新刊レビュー的なものではありません。

ちなみに私はいわゆる「読書家」ではなく、本は読みますが本が好きというよりは活字と知識に飢えているので、私の持っている本はボロボロですし、線も引いてありますし、WEBのニュースや文献も読み散らかしているし・・そんな理由から、私自身はおそらく読書家の方とは相容れないと思っています。

なので本のレビューや感想というのは普段あまり書いている内容ではないのですが、前回はマイケル・フィンドレー『アートの価値』について書いてます。参考までに〜

①『ポップな経済学』(ルチアーノ・カノーヴァ)

テクノロジーの進化のスピードが拡大していることは自明のこととして、それによる雇用の変化について、前例なき「ディスラプション(破壊)」が起こると言われて久しいなか、

ビッグデータ、陰謀論、ゲーミフィケーション、情報カスケードの起こす集団心理など、本著では今話題になっているテクノロジー(主に統計学、行動経済学)の分野における技術が人間にどのような影響を与えているか?を紹介しています。

氏はそういった人間(顧客・消費者)のコントロールと倫理的問題について触れつつ、行動経済学的には「ナッジ」を利用し、選択肢を提示した上で人間の行動を変える方法について示しています。(例えば、選択肢が多すぎると消費者に迷いが生じて結果的に消費行動に結びつかないという「ジャム効果」など)

基本的には帯にあるようにキーワード+小噺という形式を取っており、前書きにあるように何かしらの回答を提示するような著作ではなく、本著で描かれているのはあくまでこのようなテクノロジーが利用されている、という紹介で、

ふわっと統計学の無作為抽出が出てきたり、統計学的な「危うさ」についてもふわっと書かれているので、この辺りを詳しく知りたければイアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』を読んだ方が宜しいかなと個人的には思いました。

②『地に呪われたる者』(フランツ・ファノン)

膨大な量の(植民地的)コンテクストを要約すると、巻末付近で書かれているファノン自身の臨床で経験したこと、つまり奴隷制度というものに対する支配者-原住民の体験する独特な「症候」のようなものがメインテーマかと思われます。

①「civilize(文明化する)」と称して原住民の文化を侵略し、原住民を動物として扱う植民地の支配者(コロン)と、原住民との間の支配的関係は暴力で成り立っている。
②暴力は搾取された者にとってのスローガンである。自分を解放するには、力が前提になる。
③植民地の世界にはマニ教的善悪二元論(善か悪かの二択)しかなく、原住民にとっては支配者は悪である。だがこれは支配者によってもたらされた論拠である。

ファノンがかくも「暴力」に拘泥するのは、植民地支配そのものが原住民を非人間化し「暴力」により始まったから、なのですが、本著では植民地支配の始まりから末期、その後についてまでの原住民、植民地支配者(コロン)の様子をリアルに描写します。

”野蛮な”土着的文化の否定とともに非人間として支配されてきた植民地の原住民は、暴力による革命で自由を勝ち取ったとしても、そこに残っているのは不毛の地とスキルのない原住民と一部の裕福な原住民のみで、

ヨーロッパは植民地支配により盗んだ資源で発展した、という点について、冒頭でもサルトルが苦々しさを孕んだ皮肉を述べているように、ファノンも「ヨーロッパを窒息させるほどの富は、後進国の人民から盗み取られた富だ」とし、その慰藉を求めます。

このどうしようもない植民地-原住民という症候を解決するという点において、政府や国家、あるいはヨーロッパの(財政的)介入と、国民の団結と(文化的・技術的)修練が必要という意味では、

現代のポスト・フォーディズムで右側に傾いた資本主義社会の労働者にも十分に敷衍できる話かなあ、と思います。

※ちなみに再読。読んだけど内容をさっぱり忘れていました。

③『プログレッシブ・キャピタリズム』(ジョセフ・E・スティグリッツ)

テクノロジーの発展に伴う大規模な(人間の)雇用の破壊はフォン・ノイマンは「シンギュラリティ」と称しましたが、AIなどのイノベーションによって社会的格差が広がるなんてタームは今やどこのニュースでも耳にするかと思います。(多くの場合、陰謀論的ないかがわしいものですが)

では、ポピュリズムは一体どこに向かっているかというと、アメリカの問題点についてスティグリッツは、GDPが上がっていても蓋を開けると1%の上位富裕層がより裕福になっただけで、99%その他に分類される国民の所得は増えていないと指摘します。

そもそもアメリカの政治は「供給力が強化されることにより経済成長が達成できる」というサプライサイド経済学の前提に基づいていて、最上層に富が渡れば誰もがその富の恩恵を受けられる(トリクルダウン)と考えられていました。

・・が、実際のところ、富裕層は新たな雇用を生み出したりするわけでもなく、不労所得(レント)に投資したり、あるいは租税回避を行っていたため、富裕層の作り出した富が市民に還元されることは極めて少なかった、

という点も合わせ、政府が「市場が豊かになれば国も豊かになるだろう」と放置していた市場原理主義には問題がある、と。

企業や市場の間に政府が介入し官民で競争をする、イノベーションで奪われる雇用についてのケア(職業訓練、失業手当など社会保障、人件費が浮いた分を還元するなど労働者の救済)、および大切なのは個人主義ではなく団結である、という意味では先ほどのフランツ・ファノンの話にも繋がりますが、

社会的システムからあぶれてしまう市民の「無力感」と自殺者の増加を省みて、「経済学者とは政府の失敗を防ぐ方法を学んできた者である」とするスティグリッツの指摘はとても切実で、これはアメリカのみならずイノベーション的な意味でパラダイムシフトを迎える全世界における課題でもある気がします。

④『心がつながるのが怖い 愛と自己防衛』(イルセ・サン)

帯には「心の壁を作る仕組みとそこから抜け出す方法を公開」とありますが、それはつまりセラピーやカウンセリングの必要があるということで、でも、無意識的に作っている心の壁の場合、もちろん自覚ができないので、

このような傾向がある場合、またそのために自分自身が(主に人間関係で)失敗している場合、その行動の裏にはトラウマや家庭環境の影響による防御反応が働いている、という話。

私の場合、今までの人生の中で私自身に向けられる興味について非常に強い恐怖を抱いていたのですが、それは何故かということを考えると、何だか耳が痛かったです。

⑤『知についての三つの対話』(ポール・K・ファイヤアーベント)

知識とは何か、前提とは何か、学問とは何か、啓蒙とは何か、・・あるいは、人間関係は何か?という、かなり形而上学的な根本的なものを扱い、そして時に定義し、逡巡する様子を論文ではなく複数の登場人物の「対話」により展開するという試みは、

学問とは根本的にリジッドなものではなく、流動的なものであり、そうすることによりその厳密性を増す、という内容がプラトンの章に書かれていますが、

ファイヤアーベント的な「Anything Goes」的考えかたって、要するに「君が君(=主体)として存在している以上は、君は君(=主体)であるし、私(=他者性)は君(=主体)を阻害できない」という前提のもと成り立っていて、それでは人間同士の「理解」はバイアスなのか?という疑問を展開させます。

異なるパラダイム同士は相容れないことを「共約不可能性」と言いますが、ファイヤアーベントはそれを「異なった習慣を持ち、異なった言語を持つ人間同士の誤解」と表現します。

君(=主体)と私(=「君」にとっての「他者性」)において起きうることは全て真実であり、私はそれを否定も肯定もせず受け止めるという根本的な態度は、学術においても人間同士の関係においても敷衍できる考え方ですね。

※忘れていたので再読したものです。

あとがき

私は普段は現代思想(いわゆる哲学的ジャンル)、自然科学、アートの分野の本を読むことが多いのですが、ここ最近はIT関連のテクノロジー系の本や、経済学の本を見つつ資本主義社会のことを考えて、

ふわっと思考をドライブさせつつ、スラヴォイ・ジジェク『真昼の盗人のように』→フランツ・ファノン『地に呪われたる者』→ファイヤアーベント『知についての三つの対話』→ジョセフ・スティグリッツ『プログレッシブキャピタリズム』という思考地図を繋げるなどしてました。

私自身としては、例えば老後資金を用意することが前提、的に言われた発言が問題になったように、あらゆることが「自己責任」的な社会的システムって要は、「小さな政府」的なネオ・リベラリズムの公共財のフリーライドを狙った楽観的な見通しに過ぎず、

つまりは税金のシステムが上手く回っていなくてインフラや社会保障に投資できていないのだよなあ、と思うのですが、ここにどのような回答を見出すかは国民の団結、正しい知識により支えられる、というのは、

スティグリッツやロバート・ライシュのような経済学者のみならず、スラヴォイ・ジジェクのような現代思想の分野の方においてもコンセンサスとしてあるんだろうなあと感じています。

まあこれはなんていうか確証バイアスかもしれないので、引き続き様々な書物に触れよう・・。

個人的には統計学や数学、物理学の本なども好きで読んでいるのですが、ここ最近読んでいなかったので再読しよう。

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