「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」「滅びるね」CHISOUフィールドワーク01 奈良
文責:志水良(Balloon Inc. CEO & Art Director)
CHISOUというアートプロジェクトに参加して最初のフィールドワークへ。奈良の東大寺周辺を中心に三月堂、浄教寺を周りました。
中でも目を引かれたのは1888年に岡倉天心とフェノロサが訪れた浄教寺とその講演の内容。廃仏毀釈によって毀損されていた日本美術を救った(とまで言われる)フェノロサの功績は興味深いものがあります。
1868年に樹立した明治政府は、欧米列強に対抗すべく富国強兵をめざし近代国家への歩みを進めます。近代国家としての形を成すため、政治や文化のみならず、あらゆる分野で社会全体が急激な変化を遂げていた時代です。
国の輪郭すら曖昧だった
たとえば国民全体の共通語としての「国語」は、フェノロサが奈良で講演を行った明治20年代になって初めて整備されます。それまでの「日本で話されていた言葉」は句読点の用法が定まっておらず、言文も一致しないなど「国語」として扱うには不便なものでした。
当時提言された森有礼による「国語外国語化論」(外国語を国語にするという主張)などは、習得に時間のかかる言語が日本の文化的発展を妨げる最大の要因であるとして、漢字、ひいては日本語の廃止を訴えるものです。効率を重視する姿勢は近年のグローバリズムにも通ずるものがありますね。
こうしたことをみていくと、国の輪郭が曖昧だった当時の国家観において、日本(という地域)でつくられた美術という以上の意味を持たない「日本美術」が、欧米列強の影響によって大きく揺らいだのも殊更不思議ではないように思います。(もちろん個別の政策の是非はありますが)
価値観の尺度を創るということ
一方、フェノロサの功績をめぐる話をする時、僕たちは継続性、純粋性をもった日本(美術)の歴史を念頭に置きがちです。
でも当時の状況を考えると、日本的なもの、日本文化とよばれるものが定まっていたとは言えない。そういう意味ではフェノロサは日本美術を「救った」のではなく、同時代の西洋美術の概念を取り入れながら「創った」という方が正しいように思います。
もちろん、そうした彼らの活動が無ければ、数々の仏教美術が歴史の中に消えていったのだと思いますが、日本にとって大事なものは何か、という「尺度」を日本人自らの手で創る機会は失われました。
何故日本美術を価値づける最も肝要な尺度というものの創出を、外国の、それも美術を専門としない人に(部分的にでも)頼らざるを得なかったのか。自らの手で自らの価値を認める姿勢は大事だなぁと、どういった状況であっても冷静なまなざしと確固たる視座を持って物事を見続ける、ということの重要さを痛感しました。
タイトルのやりとりは、夏目漱石の『三四郎』にある場面です。ロシア戦争に勝利し、それまで決して敵うことはないと言われていた大国を、アジアの国として初めて破った、同じく明治時代に書かれた作品です。
欧米列強を目の当たりにし、これまでの価値観が大きく揺らぐような時代の転換期に、戦争の勝利に浮き足立つ事なく国としての未熟さがやがては自らを滅ぼすと語らせた漱石の慧眼、その姿勢を改めて胸に留めておきたいなと思いました🦌
ジョン・アーリ「観光のまなざし」の観点から書いたnoteはこちら👇
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