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「仁政と武威」の崩壊が招いた「幕末社会」

「幕末社会」須田努著・岩波新書2022年1月発行

著者は1959年生まれ、現・明治大学教授、専攻は近代史、民衆史・社会文化史。「三遊亭円朝と民衆世界」の著書がある。

本書は「幕藩体制はなぜ崩壊したか?」を問う。この問いに二つの視点から考える。一つは「なぜ」崩壊したか?その理由。もう一つは「誰が」その仕組みを壊したか?である。

幕藩体制とは一言で言うと、「百姓は殺さず、生かさず」である。社会安定のため、農民を子々孫々まで長久させる体制である。

幕藩体制の政治理念である「仁政と武威」が崩壊したことがその理由であると言う。

「仁政」とは「思いやりのある政治」「武威」とは「武家の威光」を言う。この二つが崩壊したのが幕末である。

二つ目の「誰が?」の答えは難しい。多くの書は坂本龍馬、吉田松陰など、尊王攘夷運動の反幕府の志士を挙げる。

著者は、それは政治の世界の話。庶民の世界では違う力が動いたと言う。

それは尊王攘夷運動を契機とした「暴力」である。政治暴力だけでなく、民衆暴力も含めた暴力である。

幕末を生きた三遊亭円朝は言う。1864年(元治元年)の天狗党の乱が幕末内戦の始まりで、1968年(明治元年)9月の庄内藩の降伏で終わった。

円朝はペリー来航、桜田門外の変を語らない。語ったのは1855年(安政2年)6月江戸大地震、3年後のコレラ大流行、天保飢饉である。これが庶民共通の関心事である。

本書は幕末社会を動かした人物として西郷隆盛、勝海舟は出てこない。出てくるのは三浦命助、菅野八郎、松岡小鶴、松尾多勢子の百姓、庶民である。

三浦命助は、三陸海岸の盛岡藩支藩・遠野南部家の百姓。藩の重税に対する百姓一揆(逃散・強訴)の指導者。捕縛を逃れ、京の二条家に仕える。再び故郷に戻る途中、花巻で捕縛され、盛岡藩の獄中で死亡する。

江戸時代、百姓一揆は多く発生したが、逃散、強訴が主体で暴力行使はない。藤沢周平「義民が駆ける」庄内藩の百姓一揆も江戸、仙台藩への強訴中心。「仁政」による統治の結果である。

仁政が崩れたのが、天狗党の乱以降、1866年(慶應2年)6月「武州世直し騒動」である。騒動の主力が「悪党」と呼ばれる無宿者、地元若者になっていく。

さらに襲撃目標が米穀商から横浜貿易商人へ移行する。上州騒動、甲州騒動では生糸貿易で富裕化した商人が襲撃された。

背景には尊王攘夷思想が拡大し、松尾多勢子、女医の松岡小鶴(柳田国男の祖母)等、国学知識が地方に広まったためである。

一方で農民側も一揆に対し、自衛組織を編成する。土方歳三の義兄・佐藤彦五郎は農兵銃隊の隊長である。

飯能戦争、東北戦争では200人以上の農兵が参加した。長州の奇兵隊だけではない。黒駒勝蔵ら多くの無宿・博徒も参加した。

武士のみに許された「武威」が庶民にも拡大した。まさに仁政と武威の崩壊である。その原因に尊王攘夷運動がある。

岩代国金原村(現・福島県)の百姓・菅野八郎は幕府海防策「秘書後之鑑」を著した。そのため安政の大獄で捕縛、八丈島遠島となった。

八郎は伝馬町牢では吉田松陰と知り合い、八丈島では利右衛門騒動(島抜け事件)を経験、流人・近藤重蔵に養蚕法を伝授した。

1864年(元治8年)赦免され、故郷に戻る。故郷では世直し騒動が発生。八郎はその指導者との疑惑で獄中生活を送る。

戊辰戦争後、無実と判明、解放された。獄中で自己の思想書を著した民衆思想家である。

彼ら庶民の人々は政治の世界とは別に、在地社会の世界で活躍した。華々しく歴史に残る人物ではない。

しかし幕末社会を動かす原動力となったことは間違いない。司馬遼太郎の歴史観とは異なる庶民視点の歴史観こそ、いま必要ではないだろうか?

八丈島最大の島抜け事件・利右衛門騒動 - 兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義 (goo.ne.jp)

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