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視界


 春を迎えたら、わたしの祖父母が目の手術を受けることになった。

 自分でもわからないうちに視界がすこしずつ、白く濁っていくらしい。わたしの人生にカメラをくれた祖父は「ただのレンズ交換だよ」と言って、わたしをなだめる。  
 彼らの見ている世界を、わたしには何十年先まできっとわからないままだ。もし、同じように見える日が来たとしても、すこしの変化が重なってゆくだけなら、慣れてしまって気づかないんじゃないかとわたしはひどくこわくなってしまった。弱っていく自分の視力、歳を重ねたらいつか本当に失ってなにも見えなくなる日が、きてしまうように感じる。

 天国をつくるための地獄のような日々が終わった。

 こんなの本末転倒、だけど、もうほんとに信じられないくらい紅茶を飲んだ。一週間で7本牛乳パックが消えるほどミルクティーを飲んだ。ひと息をつくため、ではなく、目を覚ますため。カフェイン依存症になりそう。紅茶は貴族の飲み物でもあり、労働者の飲み物でもあった深い歴史を身体で感じた。華々しく輝かしい場所にも、薄汚れた陽の当たらない地下にも似合う紅茶、わたしがどんな場所にいても寄り添ってくれるなんて、大好きだ、とあらためて思った。

 昼夜、液晶を前に日々視力が失われていることを感じた。ぼやけて見えるだけでなく、さっきまで黄色に見えていたはずのものが突然ピンクにしか見えなくなったときには、もうわたしには視覚表現はできないかもしれないと本気で思った。目に見えるもの、色というものがどれほど曖昧なものか、トーンカーブが見せる画面の変化に突きつけられながらつくり続けていた。

 色彩作家と名乗っておいて、こんなに色にこだわったのははじめてだ。色を感じにくくなり始めて、自分の感覚を盲信できなくなってから、真剣に向き合ったようにも感じる。

 人間の五感の知覚は、八割も視覚が占めているという。視覚に頼りすぎた知覚のせいで、見えるものだけを信じてしまう人間の悲しい性が生まれたのかもしれない。精神や霊的なものの話だけじゃない。わたしたちは、いつも見えないものに囲まれている。わたしたちの周りには、決して自分には見ることのできない他人の時間の流れがあり、わたしたちが日々触れ、見ているものの後ろには、それをつくりだしたひとの生きた時間がある。

 百年前につくりだされた指輪に見惚れてしまうとき、きっとわたし本当は指輪そのものを見ているんじゃなくて、当時きっと高価だっただろう指輪をつくってほしいとお願いした人は自分に贈るためか愛する人に贈るためかどんな想いで依頼したのだろう、これをつくった職人は日々どんな鍛錬を積んでこの技術を身につけたのだろう、どんな想いで美しいものを生み出していたんだろう、最初の持ち主がこの世から去ったとき、誰がどうして受け継ぐことになったのだろう、このお店に流れ着くまで一体どんな人たちに迎えられ、愛されてきたのだろう、そんなふうに、その指輪の生きていた時間が視せてくれる世界に恋焦がれている。
 きっと、指輪にしか見えない世界にはとても愛が溢れていた。この指輪が時を越えてわたしの目の前にある事実は、指輪がこれまでに出逢ってきた人間全員にずっと大切にされて愛されてきたという証だと思うから。人間の愛なんていう移り変わる不明瞭なものが、確かにそこに存在していたことを感じる。

 想像をする、というのは見えないものを視ようとすることだと思う。そして、人間や物が生きてきた時間に想いを馳せて、生きることそのものを肯定する行為にも思う。

 小学生のとき、小説を読むのが好きだった。でもわたしは文字を追うのが好きなわけでも、言葉の細やかな意味の違いを理解するのが好きなわけでもなく、言葉を通して世界を視ているのが好きだという感覚だった。音を聴いて視えるもの、言葉を読んで視えるもの、香りを聴いて視えるもの、たくさんあるけど、見て視えるものってなんだろうな、それはひとつの世界を見せながら、違う世界を思い浮かべるようなもので、とてもむずかしいことだと思った。多くの人にとって、見えていることは当たり前すぎて、知覚したものをわざわざ認知して解釈などしていないのかもしれないけれど。

 こんなのぜんぶわたしの勝手な空想だ。しかしわたしはいつも、日々見ている目紛しく変わっていく世界よりも、誰かの頭のなかで思い描かれている世界こそがほんとうの世界なんじゃないかと思う。その世界の完璧な姿は誰も、誰にも共有できない。わたしのほんとうの世界はわたしにしか視ることができない。それがどうにも悲しくて、わたしたちはなんとか伝えようと形にしているのかもしれない。たとえ視えなくても、感じてくれる人が現れて、わたしのほんとうと、あなたのほんとうが通じ合うことを期待して。

 見えるものほど不確かで信じ難い。だから目につきやすいものほど、真っ直ぐ見てはいけないと思う。表面的なものを盲信するのは、移り変わるものに固執し、裏切られ続けることに自ら身を投げ入れていることだと思うから。わかりやすいものばっか好き好んでんなよ!

 本当に大切で伝えたいことほど、見つからないように、でもそこに辿り着いてくれる誰かを待ち侘びてとてもわかりにくい場所へ隠す。こんな文章みたいに。

 現実を見るための視力と引き換えに、わたしはわたしのなかにある見えない世界をもっと視ようと集中して、表現しようとしているのかもしれないなと思った。

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