見出し画像

幸せな寺と、幸せな街


やっちゃ駄目なことがない場所


ウチのお寺は不登校児の居場所活動としてのフリースクールをしている。毎週火曜と木曜の2回。
フリースクールとはいえ、子どもたちが安心して過ごせ、自由に遊んでいられる場所というコンセプト。
不登校というと、ついつい「学習は?」「社会性は?」と心配が先走ってしまうけれど、まずは「安心して居ていい場所」が必要で、「安心して居ていい大人」も必要。
そして、「邪魔されずに遊べること」がとてもとても大事。

僕は皮肉を込めて、「学校やお家でやっちゃいけないことは全部やっていいよ」と言っている。

興味ある方はこちらをどうぞ。

今週は子どもたちが何故か竹を切って家を作る!と言い出して、本堂の前の庭で作り始めてしまった。
苔が痛む、、土を掘り起こさないで、、という心の声をこらえつつ「怪我しないようにね✨」とだけ言って見守った。

子どもたちは真剣に(本気で)家を作ろうとして夢中になり、17時を過ぎて暗くなってやっと手を止め、「明日も来ていい?」と大人たちと交渉を始めた。

ここでは遊ばないで


翌朝、本堂前に建ちつつある家らしき建造物と、散らばった竹の破片とを眺めて、僕は子どもたちの真剣な楽しそうな顔を思い出し、とても微笑ましい気持ちだった。

ところが、僕の間もなく80になる母は、「何も本堂の前でやらなくても、、」と顔を曇らせた。本堂の前はきれいなお庭にしたい、遊ぶなら別のところでやってほしい、と。

僕ははっとした。

確かに母の言うことは間違ってはいないし、僕もできれば別な場所で、と思わなくもない。

でも、大人の思惑を優先して子どもが子どもの場所から追いやられるという構図は、何だかとても残念なことだと感じたのだ。

市街地では公園ですらボール遊びが禁じられ、子どもの歓声がうるさいから公園を閉鎖する、などというニュースもあるらしい。

これは「大人の都合が子供に優先される」という意味で、同じ構図ではないだろうか。


幸せなお寺と、幸せな街


少子高齢化の"津波"が押し寄せている地方のコミュニティにおいて、子どもたちが集まる場所というのは本当に少ない。少ないことを当の住人たちも心から嘆いている。

幸いにもフリースクールを行う僕のお寺には子どもたちが来てくれる。日が暮れるのも忘れてあそび、明日も来たいと言ってくれる。

僕は、幸せなお寺だなと思う。

子どもたちが来てくれる場所は、どこでもとても貴重なもの。大人(特に高齢の)ばかりが集まり、大人の都合ばかりが優先される街に、僕は住みたくない。

一関市も、子どもたちが明日も行きたい!と思える街ならば、きっと幸せな街になっていくと思う。

そういう街がまだまだ少ないからこそ、チャンスはある。


サポート、お願いはしませんが、喜んでお受けします。文章を書くことは私にとっての”托鉢”修行といえるかもしれません。