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教師が自分の指導に自信をもつ要因は何なのか?〜教員十数年、未だ自信なし〜
はじめにー授業検討会への印象ー
先日大学院の講義の中で,授業検討会に関する話題になりました。現職院生や学卒院生の様々な考えを聞けて大変面白かったのですが,話したメンバーはどちらかといえば授業検討会に良いイメージをもっていない方が多いようでした。その理由もわかるような気がします。授業検討会では,参観者からよくわからないダメ出しをされたり,参観者の武勇伝が永遠と語られたりすることもあります。
幸い,私の勤務校の授業検討会では、こういったことはほとんどありませんでした。子どもの学びがどこで,どのような関係の中で起こったのかといった点に焦点をあてながら話が進んでいくことが多く、心地良さすら感じていたことを懐かしく思い出しました。(勤務校を離れてまだ3ヵ月しか経っていませんが遠い昔のようです)
授業を見る視点
この講義が終わった後,無性に読み返したくなった本がありました。こちらです。↓佐藤学(2009)『教師花伝書-専門家として成長するために-』小学館
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「授業観察」について述べられている部分を引用します。
授業の観察において,さらに重要なことは観察している授業の中を授業者や子どもと一緒にまるごと生きることである。授業の内側を生きると言ってよい。観察者が授業を外から観察している限り,授業の生きた事実やその事実の複雑な関係は見えてこない。
これができる教師は多くないように思います。むしろこの視点を教わったことがない人の方が多いのではないでしょうか。ありがたいことに,私は大ベテランの先生から教えてもらうことができましたが,今実践できているかといえば怪しいです。この言葉は自分が教員生活を終えるときまで忘れることはないと思います。(さすがに一言一句までは覚えれませんが)
教員が自分の指導に自信をもつ要因とは?
さて、本題に入るまでに時間がかかってしまいました。
冒頭でも少し関連することを述べましたが、授業検討会の際に,堂々と自分の指導や教育論を,自信をもって授業の外からふりかざす人がいます。もちろん参考になるお話もあるのですが,授業の外からの意見は結局「参考程度」にしかならないのです。どちらかと言えばシニアミドル〜ベテランの先生に多いような気がします。何なら「○○科の大家」と呼ばれているような先生の発言でも時折感じることがあります。
どうして自分の指導や教育論に自信をもって話せるのでしょうか?その自信はどこから生まれるのでしょうか?(ここで言う自信とは「自分の言行の正しさなどを自らから信じること」をイメージしています)こんなことをふと講義の途中で考えてしまいました。(一部の先生に嫌味で言っているわけではなく、純粋な疑問としてです。)
経験年数?研究会での講師歴?保護者からの感謝の声?同僚からの羨望の眼差し?教育実践優良賞に選ばれた?・・・何が要因なのでしょうか???
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私は,今でも自信をもって授業ができません。時折恐怖すら感じます。甘いと言われるかもしれませんが事実です。授業が途中で止まってしまわないだろうか,授業が託児所になっていないだろうか、子どもが教室からいなくなるのではないか・・・十数年教員をやっていますが,本気で考えます。(後輩にも素直に伝えています)
怖いからこそ,自分の実践を振り返り記録します。それを「肴」に同僚や先輩と語らいます。そういった行いを続けることで少しずつ恐怖心を和らげていったように思うのです。
幸いにも,実践記録を読んでくださる方からありがたい評価をいただくことがありました。もちろん評価されたことは素直に嬉しいですし,「一瞬の自信のようなもの」につながります。同様に後輩も増えてきたからか、周りの先生方からは教育に「熱い先生」と思われているような気がします。実際に「先生の授業には熱さと安心感がありますね」と言っていただくことも増えました。ありがたい限りです。ですがそれを絶対の自信として語ることはできません。
熱意は自覚できるけど自信はない
「熱さ」で思い出しました。下記は2年前に書いた実践です。(審査員選評のリンクを辿っていただくと今でも実践内容が全文公開されています。実践内容のリンクを直接貼ると顔写真などが出てくるので…さすがにそれは恥ずかしい。)
少し話がそれますが、私は聾学校の教員です。その中でも聴覚障害と何らかの障害を合わせ有する子どもの教育に携わることが非常に多かったです。耳の聞こえない子どもが生まれる確率は0,1%と言われています。1000人に一人です。その1000人に一人の中で別の障害を合わせ有する子どもはどれほどいるのでしょうか?かなり少ないでしょう。
自分自身の様々な経験を通して、なかなか知られることのない、「聾学校」や「聾重複障害」について発信するのが自分の使命でもあると感じています。
授業や教育に関する自信はありませんが、聾学校で懸命に学び、生きる子供達を知ってほしいという思いだけは人一倍あります。熱意はあります。
聾学校での教育や聾重複障害児の教育に関しては熱い思いをもっていますが、それでもはっきりとした自信にはつながらないのです。熱意と自信は別物だと捉えています。
終わりに
改めて,教師の自信はどこからくるのだろうか?としばらく頭を悩ませそうです。
勘違いしてほしくないのですが、自信をもつことがダメだと言っているわけではありませんし、自信をもつことは大切なことでもあると思います。ただ、教育や授業という営みに自信をもつことは、自分の中では相当難しいと思うのです。
※どうも最近はマネジメントや組織づくりといった勉強ばかりだったので、忘れていたものに火がついたようでした。
長い記事になってしまいました!
今日は快晴🌞皆さん良い一日を!🌸
※追伸
昨日、授業の一環で「スイミー」の模擬授業を担当しました。
ストレートマスターの皆さんに混ざっての授業をしたのですが、ボロボロでした。現職教員だからといった、カッコつけがあったように思います。また、子ども役は院生の方が担ってくれたのですが、実際の子どもと、ずれがあることは否めませんし、それは当然のことです。目の前の子ども像を自分の中で設定しきれていなかったのが大きなボロボロ要因でした。
改めて授業は難しいな〜。(けど楽しい!)