【小説:星にならなかった男】
私が主催する文芸サークル「ペンシルビバップ」は、
2023/5/21(日)に開催される文学フリマ東京36に参加します。
ブースは第一展示場のN-34、地図はこちらになります。
今回は「星」をテーマに、サークルメンバーの小説5編・エッセイ4つ、詩が3つに短歌が19作(連作含む)入っています。こちらのWebカタログで中身の紹介をしているのでぜひご確認ください。
■文学フリマ Webカタログ「ペンシルビバップ:星」
https://c.bunfree.net/s/m8x
その中から、私こと東武(あずまたけしと読みます)が書いた小説作品を最後まで公開いたします。Pixivでも先行公開しているので、どちらでも構わないので読んでもらえたら嬉しいです。
では前置きが長くなりましたが、本文がこちらになります。今回のは自信作!ぜひ読んでもらえたら嬉しいです。
【小説:星にならなかった男】
1
昔々の大昔。ビッグバンよりもっと前、世界が今より曖昧で、今よりずっと混沌と、浪漫に溢れていた頃の、とある男の物語。
さて、その時代。
地上にはたくさんの人々が暮らし、空の上にもたくさんの神様が暮らしていた。神様たちは地上の人々の暮らしぶりを観察し、優れた功績を上げた人間を見つけると、死後に偉業を称えるため空へ召し上げて星座とした。
勇敢な戦士は百戦百勝を祝われ、空に登って勝利座になった。弓の名手は必中座として空に登った。家を建て続けた大工は棟梁座、冗談ばかり言って誰からも軽んじられていた男は、笑顔を絶やさなかった功績で喜劇座として空へ上がった。七つの海を荒らしまわり無数の船を沈め非道の限りを尽くした海賊でさえ、その力を認められ海王座となった。
人の一生は儚く過ぎて誰の記憶からも消えてゆくが、星座として空に上がればその偉業は永遠となる。
誰もが名を知る英雄も、誰にも知られぬ市井の民も、神はすべてを見通して、すべての人にチャンスを与えた。
この時代、星座として神に召されるのは最も名誉なことだった。
この栄光を真っ向から否定する男がいる。
「冗談じゃない。俺は星座になんて、ならないからな」
空はいつでも彼を受け入れる準備はできている。
あとは彼が首を縦に振るだけでいい。
そうすれば彼は死後、空に昇って星座になる。
だが、彼は断る。
「何度言われても答えは同じだ。帰って神様に伝えてくれ。せっかくの名誉だが他を当たれってな」
「何故です?」神の御使いが言った。「星座として名前と姿を空に残すことは地上人の永遠の夢。人の記憶も記録もやがて薄れて消えますが、空の星は千年、万年を経てもなお輝きます。貴方の子々孫々までもが夜の空を見上げて、刻まれた貴方の姿を誇りに思うでしょう。貴方の名声は空に登ってこそ永遠となるのです」
「いい話だが、お断りだ」
「馬鹿な。考え直しなさい。すでに神々の間では貴方の星座としての名も検討が始まっています。忠烈座、忠魂座、尽忠座。まだ決定はしていませんがいずれにせよ貴方の星座は国への忠義、報身の象徴として忠の一字を与えられ、永遠に空に輝くでしょう」
「俺は忠義心の有る人間じゃない」
「自分が名誉に足る存在ではないとお考えなのですね。気持ちはわかります。私だって千年前、星座として空に登る時には自らがその栄誉に値するのかは悩みました。ですが、神が私を星座とすると仰るのですから、私はその通りにしますと答えました。今では神の判断に誤りはなかったと確信しています。神の行いに間違いはありません。貴方は星座となるべき人です」
「あんたは何座なんだ?」
「生レバー食あたり座です」
「帰ってくれ」
「何故です!」
「望んでもいない名で星になるなんて御免だ」
「馬鹿なことを! いいですか、神は人の功績にふさわしい星座の名を与えます。私は市井の代表として、生食の危険性を後世に伝えるための星座にしてくれたのです。神が人間に対して向ける深い愛がわかりませんか?」
「もういいから帰ってくれよ。俺は忙しいんだ」
「神の勅命を拝領する以上に大切な用事があるとでも?」
「あるよ。見ろ、状況がわからないのか?」
男は眼下を指さした。
男と御使いがは高い山の中腹にいる。
木々の切り開かれた一角からは平原が見えた。
平原に響く地鳴りの音は、数万人のあげる鬨の声。
太陽を照り返し輝くのは刀槍の光。風にはためくのは無数の軍旗。
地を覆い尽くす十五万の敵兵。
「将軍閣下! 右翼の第一陣が会敵しました!」
「よし。合図を誤るなよ。頃合いを見て右翼は退く。敵を誘い込んで崖上から石を落とせ。味方を巻き込むなよ。作戦通りにやれば大丈夫だ」
この男は将軍と呼ばれている。
呼び名の通り、将軍職にある。三十の半ばにも満たない若さで、国の最高司令官として全軍を指揮し、皇帝を僭称する偽王の軍と熾烈な闘争を繰り広げていた。
とはいえ男は数年前まで、軍人でさえなかった。
剣の扱いも知らなければ弓を引いたこともない。
用兵・戦術・計略・作戦。そういったものの一切と縁遠い存在だった。
そんな男が何故、将軍と呼ばれるに至ったのだろうか。
時をさかのぼり、確かめてみよう。
2
男はいったい何者なのか? 生まれは南方、漁師の嫡男。謎や不思議は何もなく、彼はいたって普通に育つ。幼い頃から自然を愛し、長ずるに連れ詩歌を愛し、チャンスを求めて帝都へ移り、日雇い仕事で糊口をしのぎ、寝る間を惜しんで詩作にふけり、いつかビッグな男になるぞと口だけ達者の貧乏暮らし、胸にあるのは大きな野心、夢に見るのは名高い詩人、生きた証を歴史に残し、輝く星座を夜空に残す。ボロは着てても志だけは青雲さながら立派に大きな、そう、彼は、どこにでもいる無名の若者に過ぎなかった。
そんな男が何故、将軍と呼ばれる地位になったのか?
彼の地位を正確に書けば、
『武威遠震忠心赤熱七星天魔覆滅轟雷大将軍』となる。
あまりに立派で仰々しく、しかも長いので誰も正式名称を覚えない。彼も覚えていない。彼に称号と地位を与えた本人でさえ忘れている。
そこで誰からも、彼は『将軍』とだけ呼ばれる。
後には将軍とまで呼ばれる男だが、一般人に過ぎなかった当時の暮らしぶりは悲惨なものだった。住む家もなく他者に軒先を借りて風雨をしのぎ、仕事で稼いだ金の半分を借金の返済に充て、残りの半分で紙と鉛筆を買った。出版技術は発達しており誰でも文房具が買える時代ではあったが、今のようにノート一冊が百円、二百円というわけにはいかない。日雇い仕事の給金で紙一枚を買うのは簡単ではなかった。それでも彼は買い続けた。
彼の暮らしていた帝都は開戦前、世界の中心とも呼ばれるほど栄えていた。長年の平和が様々な文化を生み出し、文化は大衆に愛されて進歩し、詩や歌、絵画に彫像、建築、陶芸、演劇、小説と、あらゆる芸術が都に集まっていた。
彼の生まれた南方、田舎の漁師町にさえ都会の洗練された詩や歌が流れてくるくらいだから、国中がアートの国と言っても差し支えない。
無名の若者が芸術的才能を貴族や王族に見出され、一躍スターになることは何度もあった。才能が世間に認められなくとも神々には愛されて、死後に文字通りの星として空へ上がる者も毎年のように現れた。
帝都ではあらゆる者にスターとして躍り出る、成功のチャンスがあった。
「俺のように無名の者が芸術の世界に足を踏み入れるには、とにかく人の目につくしかない」と彼は考えて、日々の給金で何とか買った安紙に詩と雅号を書き入れては貴族に献上した。パトロンを求めてのことだったが、薄汚れた貧乏青年の詩など歯牙にもかけられなかった。
それでも彼は書き続けた。十の詩で駄目なら百、百の詩で駄目なら千。
彼は諦めなかった。
彼には情熱があった。
しかし、才能はなかった。
『火と水』は彼が十五歳の時に書いた詩である。漁師の息子であった彼が湖の上、揺れる舟の上から、燃え盛る山火事の炎を見て自然に対する恐怖、畏怖、敬意をこめた詩だと言う。
ここでその詩を見てみよう。
『火と水。
その山の上の木がたくさん生えてて青々としているところらへんで火がとても燃えていて山全体が例えるならまるで夕焼けみたいに赤く燃えている。そんなとてもすごい燃え方をしているのがやばいと感じる。
火は危ない。火が燃えると山の燃えてる感じが湖の水も燃えてるみたいにも見える。火が危ないのは燃えると人は死ぬからだ。森が燃えるのも危ない。熊もカモシカも燃えたらだいたい死ぬので猟師も困る。火は危ない。ああ水よ、水があれば火が消せるのに。だがそんな都合よく水はないのだ。水よ、ここにはたくさん水がある。それは都合よくここにあるのでなくて湖だから水がたくさんあるのだ。でも水も危ないのだ。大雨が続けば川も溢れてそれは困る。溢れないからといってそれでも危ないのは溺れれば死ぬからで溺れて死なないのは魚や亀くらいのもので人は死ぬ。溢れなくても水は危ない。飲みすぎれば腹を下す。ああ、火よ。あと水よ。勝手に何もかも燃やしてしまったり生き物を溺れたりしてそんなどうにも人の勝手にできない感じとか気を付けているのにうっかり溺れてしまったり欲しい時に限ってなかったりする感じとかのそういう無常じみた部分だとかが何となく人間の心、うまく操れない感じが人間の心に似ているように思えないだろうか。
なので火と水は人間の心だ。
理由は前述の通り』
彼の父親は、息子が「詩だ」と言い張る何かに一切の文学的素養を見い出せず、彼の将来を心配して「大人しく漁師になれ」と強く忠告した。彼は反発して家を飛び出した。
男は帝都で肉体を酷使して働いた。支払われる金は微々たるものだが賄い飯はいくら食べても許される。たらふく食っては働いて、懐に鉛筆と紙片を忍ばせて、暇さえあれば詩を書いた。
「いつか俺を認めさせる。今に見てろよ世間の連中」
彼は愚直に詩作を続けたが、金に結びつくことはなかった。時々、彼の貧乏に同情した人から詩と引き換えに米や酒を分けてもらった程度で。
さて、彼が無為に年月を重ねるうちにいよいよ戦争が始まった。
仲の悪さで有名な兄王と弟王の跡目争いで、先帝亡き後に皇帝に即位した兄王陛下に対して、弟王は勝手に真の皇帝を名乗り勝手に遷都を宣言した。
弟王は私兵を正規軍に格上げし、帝都のある南へ向かって軍隊を進めた。これに対して兄王も討伐軍を北上させる。
百年の平和が破れ戦争が起こった。
市民の多くは官軍である兄王の勝利を信じて疑わなかった。何故なら帝都には屈強な職業軍人がいる。
この時代も含めてだが、多くの時代において軍人とは農民が有事に徴兵されるものが主で、戦いにのみ備えた職業軍人が存在する例は珍しい。ちょうど古代ギリシャのスパルタ兵みたいなものである。
帝都の軍人は質の良い装備を持っているし、日常的に訓練しているので兵の練度も高い。反乱はどうせすぐに鎮圧されると誰もが信じていたた。
「聖上率いる我ら不敗の帝国軍は偽王の徒党を圧倒し連戦連勝、賊軍の完全征伐もはや目前」
軍の広報は連日、帝都でそのように喧伝した。
もちろん、虚報である。
実際は弟王の軍が破竹の勢いで進軍し、帝都まであと一歩のところまで迫っていた。
弟王の軍隊は立場で言えば賊軍、ほとんどチンピラの寄せ集めで訓練を受けた者は少ないが、士気が高い。彼らは勝てば地位と金と名誉のすべてが約束されている上に、占領した市街地での殺しも略奪も好き放題やれと許されている。しかも負ければ処刑される身なのだから賊兵たちは死に物狂いだ。
一方、平和に慣れた官軍、職業軍人の集まりに士気も何もあったものではない。常日頃から有事に備えて訓練していたが、旧態依然として効果の薄い訓練ばかりで実戦経験もない。金に困って「どうせ使う機会もないから」と官給の装備を質に流していた者も大勢いた。一度も戦わずに二割の兵が逃亡したとさえ言われている。軍隊の幹部、大将クラスでさえ「旗色が悪ければ兄王から弟王へ寝返ろう」と算段するくらいであった。
さて、そんな体たらくなので両軍はぶつかりあったが勝負にならない。
官軍はあっさり壊滅した。
賊軍迫るの報を聞き、兄王陛下は妻子を宮殿に残してさっさとどこかへと逃げ出す始末。
市民はそんなことを知らないので、地響きを上げ砂煙を蹴立て地平線から迫りくる賊軍を見て驚愕した。
弟王の軍は容赦をしない。降伏しない者は殺し、降伏した者は痛めつけてから殺し、宮殿からの和睦の使者を斬り、市民を斬り、あらゆる財宝を略奪し、ついには帝都に火をつけた。
戦いは官軍の敗北をもってしても終わらない。支配すべき都さえ焼き、弟王の軍勢は逃げ惑うだけの人々に悪逆の限りを尽くした。
火に焼かれ、煙に巻かれ、虐げられる民たちは天に救いを求めた。
「誰かあの悪魔たちに、どうか天罰を降してくれ」
嘆き、怒り、悲しみ。
神は救いを求める声を聞き逃さない。
人々の悲鳴は天に届いた。
帝国の争いを、弟王の暴虐を、燃え盛る都を、神々は空の上から目撃した。
そして手を叩いて喜んだ。
神は人間の絶望になど興味を持たない。スタジアムでサッカー観戦でもするかのように殺戮の宴を眺める。兄王が勝つか弟王が勝つかで賭けまで始めた。
たくさんの人が死んだのを幸いに、神々はお気に入りの人間を空に上げて星座にした。一晩で星座の数は百も二百も増えたと言われる。天上の世界では極上のエンタメを提供してくれた弟王を星座に召し上げるかの会議が始まった。
神々が惨劇に歓声を上げていたその夜、帝都の人々は逃げ続けた。市街地には炎と煙、斬られた遺体に焼かれた遺体、人々の叫び声が絶えず響きわたり、まさに地獄の様相を見せている。
後に将軍と呼ばれることになる男はどうかと言えば、やはり他の民と同じように逃げ惑うしかできなかった。
燃え広がる火から逃れるうちに宮殿に逃げ込んだが、宮殿内にも略奪目当ての賊兵が入り込んでいた。
男は宮殿の中で隠れる場所を探したが、ついに賊兵に見つかった。
金目のものなど持ち合わせが無いのは見れば明らかなのに、血に酔った兵士たちは問答無用で男を斬ろうとした。
「死んでたまるか!」
男はとっさに棒を拾う。よく見ればそれは突端の折れた槍だった。死んだ兵士の手から転がり落ちて、柄にはべったり血がついていた。握った槍からただよう死と血の臭気に男は身震いした。
いよいよここから男の不幸伝説の始まりである。
「その棒切れで俺たち三人を相手にするつもりか?」
兵士たちは笑った。蛮勇を起こした馬鹿を痛めつけてやろうと嗜虐的な気配を起こし、剣で撫でるように斬り掛かる。
対して男は無我夢中で棒を振るった。びゅんと唸りを上げる槍が兵士の首を一撃する。ぼきりと嫌な音を立てて、兵士の首が折れた。
男は続く一撃で、二人目の頭蓋骨を叩き割った。呆気にとられる三人目に、折れた槍を素早く突いた。穂先に眼球を貫かれて、三人目の兵士も死んだ。
しっかり一打で一人ずつ、男は敵を仕留めてみせた。
もちろん狙ってやったのではなく、いくつか不幸が重なった。
一つめの不幸は死んだ兵士たちは略奪目当てで賊軍に参加しただけの雑魚に過ぎず、実戦の経験はなかった。
二つめの不幸は、男は自分が思うより腕力があった。
幼い頃から漁師として揺れる舟を操っていたので元々から体幹が強い。帝都に出てからは日雇いの力仕事ばかりしていたので筋骨たくましい身体になっている。
そんな男が鉄の棒を振り回す。何しろ死ぬ気だ。勝たなければ殺されると思っている。手加減も当たりどころも気にしている場合ではなかった。まさか反撃を受けると思っていない兵士たちはあっさりと死んだ。
三つめの不幸は、男の戦うその様をたまたま、生きていた姫君に目撃されたこと。
「ああ、貴方こそまさに、まことの忠臣!」
血まみれ、灰まみれ、泥まみれの姫君は、男の勇姿に涙を流した。
「猛る炎をものともせず、志士の屍を踏み越えて、危急存亡の国のため、そして愛する姫のため、命を捨てて駆け付けるとは! なんと見上げた忠義の士でしょう!」
「いや、俺は、そういうつもりではなくて、たまたま……」
「忠義の英傑様、どうか力をお貸しくださいませ。逆賊を叩き返すのにわたくし一人では手に余ります。しかし、貴方がいれば千の兵を得たも同然」
「戦う気ですか? この状況で?」
正気か? とは、思ったが言わなかったのは一応、相手が姫君だと知ったからである。
姫君は短慮で浅慮で猪突猛進、愚かにも数万の敵兵相手に単身で立ち向かおうとしている。
男は忠義どころか兄王陛下の顔も知らず、姫君の顔も今、知った。皇室に忠誠心などないし、国のトップが誰になろうと関係ないのだ。姫君は武家の末裔らしく戦って果てたいのかも知れないが、巻き込まれてはたまらない。
「俺の知ったことじゃない。勝手にひとりで戦え」と、思いはしたが男には言えない。
不幸の四つめ。男に忠義心はないが、常識はあった。
城に炎が迫る中、戦って死のうとしているお姫様ひとりを残しては逃げられない。
「殿下。いまは戦うよりも生き延びることを考えるべきです」男は必死で説得する。「帝都はもはや落ちました。多勢に無勢、戦っても勝ち目はありません。今ここで斃れては無駄に命を散らすようなもの。屈辱に耐えてでも生きて帝都を脱出し、再起を誓うべきです」
男の言葉に姫君は、はらはらと涙を流した。
「真の忠臣は諫言を厭わぬもの。英傑殿、たしかに貴方の言う通りです。ここで散るのは簡単で、困難なのは生き延びること。わたくしが馬鹿でした。共に生き延びましょう。力を貸してください」
こうして、なし崩し的に男は姫君を助ける羽目になった。とはいえ逃げ場などどこにもない。市街地は炎に包まれて、敵兵はすでに宮殿に侵入している。どうあがいても絶体絶命。男は必死に考えたが、助かる道があるとは思えなかった。
だが、やるしかない。男は腹をくくると、姫君と共に燃える城の中を駆けだした。
そして男の五つ目の不幸。多くの神々が見守る中、男は姫君を救い出し帝都脱出に成功する。
後の世に言う『英傑激流川下り』の一事である。
ではその奇跡を目撃するため、少し時を進めよう。
3
炎に追われ煙にまかれ、燃える市街に逃げ道は無し。
帝都を囲む賊徒は三万、野獣さながら血に飢えた目で逃げ惑う民を斬り捨てる。姫と男は絶対絶命、一意専心、血路を開き果たして無事に逃げおおせるのか、あるいはむなしく命を散らすか、果たして彼らの運命はいかに。
さて、帝都は賊兵に包囲されている。
いかに脱出するか、逃走経路を考えた末に男が使ったのは市街に碁盤の目のように張り巡らされた水路だった。
水路は帝都の外の大河へと続いている。もちろん賊軍は皇族の逃亡経路として水路を警戒し目を光らせていた。真夜中となっても兵士の数は減らず、たいまつに手をともしては宮殿に続く水路のすべてに兵を配置していた。市街地の間を縫うように流れる水路には、すでに脱出に失敗した無数の死体がぷかぷか浮かんでいる。
男はその死体を利用した。頑丈な舟を選び、死体に姫君の服を着せ、舟には酒と油の入った木樽を乗せ、藁を満載し火をつけて、わざと賊軍の目につく水路へ放った。
「見ろ、姫君だ! あの舟に乗っているぞ!」
男は叫び、賊軍の兵に舟を追わせた。賊軍が舟に追いつく頃には、木樽が燃え落ちて中の酒と油に引火し、舟は姫の偽装死体ごと激しく燃えた。
賊軍の目が向いたその隙に本命、生きた姫君を乗せた舟を別の水路から脱出させる。
本物の舟にも死体を満載し、震える姫君を死体の下に隠し、男は水路に飛び込んで川の中から舟を押した。
兵士たちの目につかないように、水の流れで自然と舟が動いているように見せかけながら舟を進め、夜の暗闇に乗じて帝都の外を目指した。
天の神々も男と姫君の行く末を見守った。見守りつつ、しっかり賭けの対象にした。大半の神は手堅く、男が殺される方に賭けた。一部の大穴狙い、官軍に賭けて大損した神だけは男と姫の生存に賭けた。
二人は生きて帝都を抜けた。夜を徹して川を下る。
だが帝都の包囲網は広く、川を下る二人の舟はすぐに兵士に見つかった。
「今度こそ本物の姫君だ! 殺すな、生かして捕らえろ!」
叫んだのは賊軍の兵士。兵士たちが軍船に乗り込み、男と姫君の乗る小舟を猛追する。
男は水の流れを見切り、巧みに小舟を操るが、櫂の漕ぎ手は賊兵が多い。男が生き延びるために必死なら、賊兵どもは姫君捕縛の功を得ようと必死だ。みるみる速度を上げる軍船に小舟は追いつかれる。ついに真横につけられて、軍船から身を翻し敵兵が小舟に飛び乗った。
「万事休すか!」
男は覚悟を決め、櫂を手に構える。
兵士が男に一歩迫ると、舟が大きくぐらりと揺れた。瞬間、男は櫂を一閃。舟の揺れに体勢を崩した兵士に叩きつけると、敵は短い悲鳴を上げて落水する。
海上輸送の盛んな南方と違って平原の続く北方の兵は船に慣れていない。賊兵の多くが船に乗るのも初めてで、船酔いでまともに動けない。体調万全であったとしても、大きく揺れる小舟の上で剣を振り回すような曲芸じみた真似はできなかった。
対して男はブランクこそあれ元・漁師。まさに水を得た魚、水流激しく波荒れ揺れる小舟の上を、平地さながらに飛び回る。激しい川流と舟の揺れを味方につけた男は、襲い来る無数の賊兵を相手に櫂を振るって大立ち回り、一撃必殺で水中へ叩き落していく。
川の流れは下流へ進むほど激しくなる。だんだんと狭くなる川幅を見て、男は突如、姫君を抱きかかえて川面へと飛び込んだ。
南部出身の男は付近の水路を知り尽くしている。川の先がどのような地形になるかも知っていた。激しい流れの中を必死で岸辺へ泳ぎ着く。
賊兵たちも男を追おうとした。が、手遅れだった。川幅はどんどん狭くなり、やがて谷に挟まれた急流になる。流れはもはや逆らえないほど強く、落差はほとんど滝のようになった。先頭の軍船は急流にやられて転覆、後続の船も止まることも避けることもできず次々とぶつかっては転覆していった。
賊兵たちは川へ飛び込んだが、裸でも泳げない者が激流の中へ重い鎧を着込んだままで浮かび上がれるはずがない。生存者はいなかった。
軍船が三十艘。追撃してきた三千の兵士。そのすべてを男はひとりで撃退してしまった。
軍船三十の損失を知った弟王は怒り狂い、姫君と男の首にそれぞれ金貨三百枚、現在の価値で言えば五千万円ほどの賞金を懸けた。手配書をつくり国中に早馬を飛ばして国中にばらまく。
「生け捕りにしろ! 生きてさえいれば手足を切り落とそうが構わん!」と、配下の兵に厳命した。激昂する弟王は二人を捕まえたのち、とても文字には書けないような酸鼻極まる拷問を加えてから、殺してさらし首にするつもりだった。
弟王の思惑とは別として、手配書が出回れば出回るほど市民の間では、
「弟王に盾突くとはよほどの豪傑に違いない」
と、男の武勇が広まった。
曰く船から船へ飛び回り軍船を櫂で一撃に砕いて回っただとか、男が櫂をひと掻きすると水中から河童が飛び出して船を襲っただとか、男の活躍には尾ひれが付いて国中に広まった。
後に『英傑激流川下り』と呼ばれるこの一事が天下に広く知れ渡ったのも、男にとってはまた不幸のひとつに違いない。
さて、辛くも帝都脱出を果たした男は、姫君を連れて下流へ進み、故郷の村へと逃れた。
「ここでしかるべき貴族を探して姫君を引き渡せばいいだろう。平民の俺はお役御免だ」と呑気に考えていた。
しかし、小さな田舎の漁村である故郷さえ戦乱に巻き込まれていた。村には賊兵に故郷を焼かれた七百人の難民がいた。家を亡くし家族を亡くし燃える故郷を捨て逃げ出してきた七百の難民たちは、身を落ち着ける場所もなければ今日、食べるものさえない。難民たちは姫君が無事に生き延びたことを知ると、涙を流して喜んだ。
「いや、だが、今度こそ俺には関係のない話だ。逃げ落ちてきたのは俺も同じなのだから。七百人も面倒は見られない。俺ひとりの食い扶持なら、川へ出てまた魚でも捕っていれば生きられるだろうが」
姫君に暇を告げて自分はさっさとここを離れよう、と考えている間に姫君が言った。
「父亡き今、帝都の正統後継者はわたくしです。貴方たちはわたくしの民、誰ひとり欠けることなく救ってみせます!」
命からがら、着の身着のままようやく逃げ落ちたのは同じだと言うのに、ボロボロの衣服のままで姫君は胸を張って宣言する。父こと兄王陛下は行方知れずなだけで死んではいないのだが、思い込みの激しい姫君の中ではすでに故人も同然だった。
「とにかくこれで完全に俺とは無関係の人だ。ようやく肩の荷が下りた」と安心する男に向かって無常にも姫君は告げた。
「英傑殿! 貴方を将軍に任命します」
人々の視線が男に集まる。
「あなたの勇気忠義そして悪を滅する天雷のごとき武勇を賞賛し武威遠震忠心赤熱七星天魔覆滅轟雷大将軍に任命します!」
「何の話ですか?」
男が聞き返すが姫君はもう聞いていない。木箱の上に乗って立ち上がると七百の民を振り向いて言った。
「みなの者、よく聞きなさい。ここにおられるお方は燃え落ちる炎の城よりわたくしを救い出し、荒波蹴立てて激流を下り、追いすがる賊党相手に一歩も退かず、群がる敵を剣風うならせ一刀両断、国のため正しき義のために命を投げ打ち戦う勇者、真の救国英雄、燃える忠義の志士、この方が将としてわたくしの隣に立つ限り我々に敗北の文字はありません! 涙を流すのは今日までです! 亡き父母に代わり、天で見守る神に代わり、血で染まる朱の大地に代わり、わたくしは将軍と共に戦います。あなた方も立ち上がりなさい! 将軍とともに悪の偽王を討ちましょう!」
わあ、と人々が歓声を上げる。激しい拍手が続いた。
「待ってください。俺は軍人ですらない。将軍なんて言われても、戦い方なんて何も知りません」
「あれだけの功績をあげながら驕ることなく謙遜とは。将軍殿こそ英傑の中の英傑。さぁ共に行きましょう。我々の民を救わなければ!」
「行きましょうって、どこへですか」
「決まっています! 帝都へ! 取り戻すのです! 我々の手で!」
男の目から見れば姫君は恐れ知らず、不遜な物言いをあえてすればどうしようもなく馬鹿だったので、放っておけば本当に難民七百人を連れて帝都へ無策に突撃しかねない。
姫君を狙うのは悪逆非道の弟王で、捕まれば必ず殺される。ここで姫君を放っておくのは、ネギと鍋と料理酒を背負って突撃する鴨を台所へ放つようなものだ。生き延びられはしないだろう。放っておけば姫君は死ぬ。七百人の難民も死ぬ。
「俺の知ったことじゃない。そこまで責任は持てない」と、思っても見捨てられないのが男の甘さでもある。
「正規軍と合流を果たすまで。難民が根拠地を見つけるまでの臨時」という条件で、男は将軍職を拝命した。
名も無き若者だった男はこの日を境に将軍と呼ばれるようになる。
男は亡国の姫君と共に難民たちの希望の星となった。
こうして不幸が重なり将軍となった男だが七百の難民を前に、頭を抱えた。
姫君を連れて脱出するには命を懸ける必要があった。だが七百人の難民は別だ。命を賭けるくらいでは解決できない。どうにかして彼らを食わせていかなければならない。故郷の農村に多少の蓄えがあるといっても、それは冬を越すための備えであって、七百人で消費すればイナゴに襲われた畑も同然に跡形もなくなるだろう。
のんきに畑を耕していたのでは間に合わない。野山を駆けても川をさらっても得られる食料には限りがある。
結局、すでに食料のあるところから奪う以外に方法はなかった。
どこにそれだけの食料があると言うのだろうか?
決まっている。軍隊である。
数万、数十万の兵士を集めたということは当然、それだけの口を賄う食料の備えがあるはず。
男は賊軍の陣地を襲って備蓄の食料を奪うことを考えた。とはいえこちらの戦力は七百の、鍬しか持ったことのないような難民たち。
悪ければ全滅、首尾よく食料を奪えたとしても半数は死ぬだろう。男は悪党の誹りを受ける覚悟をして、犠牲を覚悟で七百の難民をもって敵陣を襲う算段を立てた。
そして男は再び神々の前で奇跡を起こしてしまう。
男は犠牲者を一人も出さず賊軍の陣地を奪うのである。
4
金が無ければコネも無く、運も無ければ才能も、何も持たない根無し草、荷物は大きな夢ひとつだけ、そんな生き方だったはず。今では肩に七百と、姫と己の命を背負い、ただのひとつも落とさぬようにと、男は知恵を振り絞る。
さて、男は食料奪取の算段を立てた。
七百の非武装の難民を軍隊に真正面からぶつけたら一方的な殺戮にしかならない。血気盛んな姫君を放っておけば自ら剣をとって陣頭に立ちかねない。知恵を絞るしか道はなかった。
まず、敵軍の鎧兜を集められるだけ集めた。幸い、激流で溺れ死んだ兵士の遺体が湖に流れてくるのでいくらでも使えるものがあった。「死体の衣服を剥ぐなんて」と嫌悪を示す者もいたが、将軍は自ら先頭に立ってそれをやった。姫君でさえ手を汚した。率先して働く姫君と将軍を見て、難民たちも働きを厭わなかった。
次に、難民の中から若く屈強な者だけを選び鎧兜を着せて、賊軍の兵士に偽装させた。
「水路で部隊は全滅したが、我々はどうにか生き延びて男と姫君を捕らえた」と偽って、敵陣の門を開かせた。
何しろ本物の男と姫君に縄を打っているのだから、あっさりと敵は騙された。
残党が連れてきた二人の人物は、手配書の人相書きとも一致する。「併せて金貨六百枚の大手柄だ」と、敵陣の指揮官は手を打って喜んだ。
こうして砦の中に難民百人を忍び込ませることに成功すると、夜陰に乗じてその百人で、今度は砦の指揮官を捕縛した。まさか敵が忍び込んでいるとは知らない砦は大混乱に陥った。
孫子の兵法の一節に「兵は詭道なり」という言葉がある。自らに能力があっても、ないように見せかける。できるのにできないふりをする。ある作戦をとると見せかけて、とらない。自分が近くにいるのに、遠くにいるように見せかける。つまり戦争とは騙し合いであるといった意味だ。
将軍がこの言葉を知っていただろうか? もちろん、知らない。孫子が書かれるのは紀元前500年ごろ、この物語の数兆年も後である。
男は戦争が騙し合いであることを知らなかったし、戦術に通じていたわけでもない。とにかく男は自分が生き延びるため、姫君を助けるために、難民を死なせないために、無い知恵を絞って作戦を考えた。
敵の指揮官を人質にとったのち、敵兵に向かい姫君が宣言する。
「降伏する者の命は取りません。逃げるのなら追うこともしません。わたくしに改めて忠誠を誓うのなら配下として迎え入れましょう。しかし、もしも刃向かうというのならば三千の兵をただ一人で斬り捨てた万夫不当の将軍が相手になりますよ!」
将軍の武勇はすでに広く知れ渡っていたので、指揮官は一も二もなく降伏した。将軍は流血を覚悟していたが、指揮官が降伏すると誰も将軍に逆らう者はいなかった。
「羊に率いられた狼の群れは、狼に率いられた羊の群れに敗れる」とはナポレオンの言葉だが、まさにその通りである。盗賊や荒くれ者を寄せ集めただけの賊軍に弟王への忠誠心などなく、状況次第で簡単に寝返る。むしろ砦を占拠されたなどと弟王に知られれば処刑されるだけなので、こうなれば一蓮托生とばかりに砦の全軍揃って姫君並びに将軍の配下になった。
こうして将軍は七百の難民の誰ひとりとして死なせることなく食料を得ると同時に、五千の戦力まで得てしまった。一人の姫が七百の難民に、七百の難民が五千の兵に。男は頭を抱えた。
この時期になると弟王も、将軍こそ帝国軍の新首領、倒すべき不倶戴天の敵と認識し、討伐のために何度も軍を動かした。
姫君と難民と部下の安全を確保するために将軍は必死で戦った。百の兵力を千に見せかけて、千の兵力なら万に見せかけた。逆に一万の伏兵を百や二百に見せかけて敵の油断を誘うこともあった。西に大軍を配置した時は、東に大軍がいるように装った。力押しの残虐ファイトが頼みの賊軍は無策に突撃を繰り返すばかりで、将軍率いる新生軍の前に次々と敗れた。
倒した敵軍の捕虜を、将軍は丁重に扱うよう厳命した。逃げたい者には水と食料を与えてまで逃がしてやった。もちろん優しさでそんなことをしたのではない。捕虜を食わせておくほどの余裕がなかったからだ。勝手にどこかへ消えてくれるならそのほうが助かる。
しかし、結果として将軍の勇名はますます高まった。
「偽王は恐怖を操り部下を縛る。降伏する者を許さずに首を撥ねる。将軍は忠義を示して部下を束ねる。降伏する者に寛容で食料まで分ける。この二人では将としての器が違う」
賊軍の間ですら将軍の人気は高まり、忠誠心のない賊兵たちは次々と投降した。弟王は、将軍の踏み絵を陣地にこしらえて踏まなかったものは斬り捨てた。脱走兵はますます増えて、将軍の兵はますます膨れ上がる。
将軍は、詩歌には一片の才能すらなかったのに軍略にかけては神懸かりな成功ばかり収めた。無数の偶然が重なった結果、男は風雲に乗じて人民の希望の星となった、
自ら望む詩人の星からはますます遠ざかって。
「俺が残したいのは武名じゃない。人を殺したことなんて誇りたくない。俺がこの地上に残したいのは詩だ」
将軍は軍務の合間を縫って、詩作を続けた。今では五十万の兵を率いる名実ともに軍部の長で、真冬の風に震えながら鉛筆を握っていた頃とは違う。それでも当時と同じ安い紙を愛用し、暇を作っては詩作にふけった。
将軍としての武勇伝ならいくらでも伝説が残っている。
しかし、男のつくった詩はあまり残っていない。
『青空と矢』も数少ない現存する詩である。
『青空と矢。
故郷のとんぼを思い出す。
故郷の赤とんぼ。
秋になると湖のそばをたくさん飛んでいた。
青空の下でもう気持ち悪いくらいたくさん飛んでいた。
それを捕まえようとした。
けれど捕まえられなかった。
人生とはそういうものかも知れない。
なんでかと言うと、今日も矢が飛んできた。
空を見ているとぶわっと矢が飛んでくるので困る。
なんでかと言うと、ここは戦場だからだ。
この、青空を見ていると矢が飛んできてどうにもならない感じが、とんぼを捕まえようとしたけど捕まらなかった感じに似ているから、そういったものを重ね合わせて人生って大変だ、と言っているのである。私は』
「なあ、おい、詩に興味はないか」
彼は時々、配下の兵にそう声をかけてはみたが、芸術に通じた者はなかなか見つからない。誰に見せてもよかったのだが、せめて詩を知る者の評価を聞きたかった。
そこで彼は詩を作ったことのある者を部下の中から探し回った。ひとりだけ見つかった。
「ええ、僕も平時には詩を書いて暮らしていましたよ。母はよく私の書いた詩をほめてくれました。母とはもう何年も会っていませんが、今は戦争中ですから」
部下はさみしそうに笑った。
そうか、耐えているのはみな同じなのだ、と将軍は反省した。詩の道から遠ざかり、詩人の星から遠ざかり、自分ひとりが焦っているように感じていたが。
「平和な世とは、誰もが詩を詠める世だな」
将軍職はやむなく受けたものだが、平和は一日も早く取り戻さなければならないのだと、男の胸に将軍としての自覚が芽生えた瞬間だった。
「早く戦いを終わらせなければな」将軍が言うと、
「とんでもない!」部下は勢い込んで言った。
「まだまだ続いて貰わないと困ります!」
「なんで?」
「だって戦いが終わったら戦えないじゃないですか」
「そうだが」
「僕、軍人が天職なんです。この戦いで手柄を立てて将軍のようになって、やがては軍人の星座として空に上ります!」
「そうか」
「それに人を斬るのって楽しいですし」
「知らん」
「殺した相手の耳を切り落として首飾りをつくっているんですけど見ます?」
「いらん」
「あと一人斬れば百人なんですよね」
何があろうとこいつにだけは詩を見せないぞ。
将軍は固く誓った。
しかし、他に見せる相手となると姫君くらいしかいなかった。
色々と素頓狂なところはあるが一応は皇族、詩の教養くらいあるだろう。しかし姫君に見せて褒め殺しの目にあうのは嫌だった。将軍が何をしようが優良誤認を勝手にして「忠義の星、忠誠の鑑」などと盛り上がるような姫なので、詩を見せても何を言われるかわかったものではない。
でも、誰かには読ませたい。
葛藤の末、将軍は姫君に詩を見せた。
「将軍殿は詩まで書かれるのですか。文武両道とは感服しました」
一抹の不安を感じながら、将軍は姫君に詩を見せた。
将軍の書いた詩をじっくりと何度も時間をかけて読み、読み終えてから姫君は複雑そうな顔をして「わたくしにはちょっとわかりませんでした」と言った。
率直な言い回しではなかったが、将軍の詩を良しと思わなかったのは間違いない。
将軍が何を言おうと褒めそやす姫君なのに、詩に対しては渋い顔をした。褒められなかったことで将軍は喜び「姫君の芸術を見る目は確からしい」と確信を持った。彼は賞賛を求めていたが、聞きたいのは本当の声だった。
考えてみれば芸術の都とまで呼ばれた帝都で育ったお姫様なのだ。
少し馬鹿で血の気も多いが、こと芸術に関しては確かな感性を持っている。
将軍は激務の合間に詩作を続け、時々は姫君に詩を見せるようになった。姫君は偽王軍との戦いに関しては一切を将軍の裁断に任せていたが、詩に関してはあれこれのアドバイスをするようになった。
さて、若い二人が親睦を深めている間も戦いは続いている。
両軍の争いは五年、十年と続いた。将軍率いる新生帝国軍は連戦連勝の快進撃を重ね、ついに弟王率いる賊軍の本拠地にまで迫る。帝国軍は山の上に陣を敷き、賊軍は平地に部隊を展開した。
運否天賦を味方につけて、将軍は勝利を重ねる。これだけの武運があるのだから将軍は神の寵愛を受けているに違いないと、人々は信じた。
実際、男の勝利に神が手を貸したのだろうか?
答えは、もちろん手を貸していない。神は人の戦いに手を出さない。神々には力がある。賊軍の船をすべて沈めることもできる。大雨を降らせて帝都の火を消すこともできた。稲妻を落とし弟王を一撃に屠ることだってできた。しかし神々はそれをしない。人の倫理と神の倫理は違う。人の怒りも悲しみも演出や筋書きのないドラマだからこそ神は好んで地上を見るのである。
それに、神が人の戦いに手を貸すような真似をすれば、賭けが成立しない。
男は自らの運、あるいは不運で生き延び、奇跡の勝利を次々起こし、壊滅した帝国軍を再編し、百万からなる偽王の兵に拮抗しうるだけの大軍団を結成した
もちろんすべてが将軍の手柄ではない。武勇に優れた者が彼の配下に集まっていたし、将兵にも難民にも人気の姫君が陣頭に立って剣を振るうのも功を奏した。「我らの姫殿下を決して死なせるものか」と全軍は意気軒昂として常に士気も高い。さながらジャンヌ・ダルクである。
無数の天運を味方につけて、奇跡の逆転劇、信じられない大番狂わせ、数々のジャイアントキリングを将軍は繰り返した。それらの功績を神々は喝采して称え、男は満場一致で星座となることが決まった。
神は御使いを地上に派遣し、将軍に星座として内定した旨を伝えた。
しかし将軍は頑なに星座となることを受け入れない。
「お断りだ。冗談じゃない。俺はそんなもの求めていない」
御使いは根気強く説得をした。
繰り返し将軍の元を訪れては、星となる栄光を語った。
果たして男は星座となったのか?
結論から言えば、彼は星にはならなかった。
戦争の決着を見る前に彼は命を落とす。
そして最後の最後まで星座への誘いを拒否し続け、御使いの言葉を受け入れることはなかった。
数々の武勇伝を残した将軍だが、意外にも彼の名を伝える資料はどこにもない。彼は誰にも名を教えなかったのだと言われている。
武勇が広がるのを彼は望まず、武勲で歴史に名を遺すのを良しとしなかった。部下に対してもただ将軍とだけ呼ばせた。姫君に対してさえ名を教えなかった。
そのような逸話ですら「将軍殿は平和を取り戻すまでは常に公人であろうとして、私人としての己は捨てていた。まさに忠義の鬼」と市民たちをまた喜ばせる材料になった。
自然を愛し、詩作を愛しながら文芸の道は歩けず、望まぬ武勇で望まぬ地位まで上り詰めた将軍は、どのような最期を迎えたのだろうか。
時を進めて、死の瞬間を見てみよう。
5
望まぬ戦火に身を投じ、乾坤一擲、血路を開き、気付けば十年戦い続け、いよいよ迫る決戦の時。夢見た平和と静けさに、あともう一歩で手が届く。果たして勝つのは将軍か、あるいは野獣の賊党たちか、夜空に散らばる無数の星が、大地の一事を見守り光る。
さて、決戦前夜。
将軍は作戦を伝えるために姫君の天幕を訪れていた。
将軍はどんな戦いにおいても、重要な作戦は姫君に伝えて裁可を得てから実行した。燃える帝都から共に逃げ落ちて十年、死線を潜り抜けること数多、鉄壁の信頼関係を築き上げてきた将軍と姫君だが、あくまで帝国のトップは姫君であるという体裁は崩さなかった。
「民草から英雄として慕われているにも関わらず常に姫殿下を立てて、自らは臣下であるという立場を忘れない。忠義とは彼を指す言葉である」などと言われ、将軍の人気はますます高まる始末。
もちろん将軍に忠義の考えなどなくて、すべて手柄を姫君に押し付けて戦いの後はできるだけ早々に市井に下り、再び詩作の道を走るために名誉など捨てたかったのである。
将軍は姫君に最後の作戦を伝え終えたあと、言った。
「偽王は、生かしたまま捕らえます。もちろんそれだけの余裕があればですが」
「ええ。将軍殿、わかっています。みなまで言わなくとも」
姫君が答える。考え無しで猪突猛進であった姫君も今では立派な大人になっている。キリ、と表情をつくってから姫君は言った。
「朝敵とはいえ叔父上です。この手で首を撥ねて父母の霊前に捧げろと、そういうことですね」
「違います」
「甘いですか? 斬り捨てて死体をカラスについばませるべきでしょうか?」
「そうでもなくて」
「生きたままついばませろ、と」
「いいから一回黙ってください」
将軍は言い含めるようにしっかりと伝えた。
「いいですか。国に戦乱を招いた男ですから、偽王を生かしておくわけにはいきません。ですが、これからは戦後のことも考える必要があります。戦いが終われば殿下は亡き皇帝陛下に代わりこの国の長となるのですから。偽王の罪は裁判で明らかにした上で、法に照らして処断すべきです。殿下は私怨や感情ではなく、帝国という国の定めた法によって偽王を処罰したのだと、知らしめておかねばなりません。我が軍の半分は元々が賊軍の兵だった無法者。その者らにも改めて、新帝の世は法治の世、無法な振る舞いは通用しないのだと示してください。綱紀を粛正し賞罰を厳に行ってこそ市民は為政者を信頼します。為政者への信頼は国の安定に繋がります。国が安定し民衆が再び平和に飽いた時こそ、帝国は再建したと言えるでしょう」
「そこまでお考えとは。さすがは将軍殿ですね」
「お前が何も考えていないだけだろ」とは、親密になっても言わないのが将軍である。
「戦争が終わった暁には、将軍殿には望むだけの褒美を与えます。貴方はそれだけを受け取る権利があります。ここまで来られたのは貴方のおかげですもの」
「俺が望むのは平和だけです。平和な世の中でなければ詩をつくって暮らせない」
「無欲なお人ですね」と姫君は表情を和らげる。
「いいえ。俺は詩人としての地位も名誉も欲しい。強欲ですよ。ただ、自分の力で得たいだけです」
「貴方が望むのなら、どんな地位だって得られますよ。例えば皇帝の位だって」と、姫君は言葉を切ってから言った。「貴方が望めば、ですが。貴方が私と婚姻を結べばそういうことになりますが」
いくら将軍が鈍くとも、それが姫君の最大限に勇気を振り絞っての求婚だとは気が付いた。
空には星々が輝き、地には煌々と戦陣の松明が燃える夜。春の夜風ですら空気を読んで沈黙し、天幕の中ではぱちぱちと松明の火の爆ぜる音だけが響く。空気を読まないのは神々だけである。夜空から身を乗り出して天幕内の二人を覗き見る。
将軍が姫君との未来に何を思ったのか?
何を答えようとしたのか?
もちろん知る由はない。
将軍は何も答えなかった。懐から紙片を取り出して、しばらく悩んでから紙片を戻した。
「また今日も貴方に詩を見てもらおうと思ったのですが。やめておきます。どうせ最後の戦いだ。この戦いに勝ったら、改めて見ていただきたい」
長年に渡り連戦連勝、奇跡の勝利を重ねてきた将軍の命運もこの夜についに尽きた。明白な死亡フラグから回収まで一日足らず。将軍は次の夜を待たずに死ぬこととなる。
夜明けと共に両軍がぶつかり合う。将軍は知略を尽くして作戦を練り、兵士たちは持てる力のすべてで戦った。
将軍の作戦はこの戦いにおいても的中し、賊軍の分断、包囲に成功、帝国軍の精兵たちが偽王のもとに迫った。
「あと一手。あと少しで勝利を掴める。あとわずかで俺は将軍の名を捨てて……」と。つぶやく男の背後に迫る者がいた。
将軍の部下には壊滅した元・官軍の兵もいれば元・賊軍の兵もいる。彼らの思惑はもちろんバラバラで、本心から平和を望む者もいれば戦いだけを求める者もいる。戦場を自らの居場所だと考える者も、手柄を立てて軍人の星を目指す者も。
「ここで貴方に勝たれたら困る。戦争が終わったら僕にできることなんて無いのに」
将軍は兵の裏切りに遭い、背中を刺された。
刃は鎧の隙間を貫き、傷は内臓にまで達していた。血が将軍の身体を伝い、乾いた大地に吸い込まれていく。
事態に気付いた部下が必死に手当てをするが、将軍の顔からは瞬く間に生気が消えていく。
「これが最後のチャンスですよ」
死に行く男の傍らに、空から御使いが降臨する。
「私と共に空に上りましょう。貴方は忠義の星座、忠誠の星として夜空に輝くべきなのです」
血まみれの将軍は、弱々しく首を横に振る。「嫌だ」と答えようとしたが口からは血を吐くばかりで言葉にはならなかった。誰かが耳元でわめいている。騒がしく駆け寄ってくる部下たちの足音も、男の耳には届かない。姫君が将軍の元へ駆け付けた時には、男はすでに息絶えていた。
男は死んだ。戦いの結末を見ずに。
望んでいた詩人としての星も残せず、望まれた忠義の星にも成らず。
その名を何ひとつ残さずに、ついに死んだ。
死後、将軍を英雄的に称賛する人々の手によって各地にいくつも銅像が建てられた。しかしその像は本人と似ても似つかず、彼の親が見ても誰を模して作られた像なのかわからないほどだった。独り歩きする伝説の中に彼本人を正しく伝える逸話はなく、もはや人々の間で語られる将軍は架空の人物も同然となっていた。望み叶わず凶刃に倒れ、もはや誰のものかもわからない伝説が残るばかりで、詩人としては何の痕跡も残せなかった。生涯を捧げるつもりで作成していた無数の詩ですら、出来の悪い習作がいくつか見つかっているだけである。
こうして果てない武運を持った男は、部下の裏切りで呆気なく死んだ。
人の最後とはこのように、時に悲惨なものである。
さて、物語はここで終わる。
主人公である名も無き男が死んだ以上、ここから先は余談でしか無いが、残された者のその後も少しだけ見てみよう。
将軍を刺した裏切り者は偽王の軍へ寝返りを計った。将軍を討ち偽王を生存させることで戦争を続けさせようという魂胆だったのかも知れないが、逃亡の途中で斬られて死亡した。
将軍亡き後も戦いの趨勢は変わらず、偽王は帝国軍の手で捕らえられた。生前に将軍が遺言していた通り、偽王は裁判で罪科を明らかにされた上で処刑された。
戦争が終わり、姫殿下は皇帝に即位した。
彼女は決して驕らず独裁をせず、臣下と民の声をよく聴いて善政を敷いた。彼女の統治は国の内外で高い評判を得て、長く続く平和の礎を築いた。法を守り秩序を整え、博愛精神と正義感にあふれた女皇として民にも人気が高かった。
戦争終結から数年後には、逃亡したまま行方をくらまし誰にも死んだと思われていた先帝こと兄王が帝都へ帰還した。兄王は自分の墓が作られていたことに激怒し、娘である女皇から帝位の返還を要求した。
それどころか女皇に対して偽皇帝を名乗った罪で処刑するなどと言い出したせいでまた戦争になった。権力へ異常な執着を見せるあたり、結局似たもの兄弟だったのである。
ちなみに民衆の女皇支持は圧倒的で、兄王側には少なからぬ野心家が加担したが戦いは女皇の圧勝に終わった。
そんなこともあったので、世襲制の支配は戦乱の元になると判断した女皇陛下みずからの手で帝政は撤廃、国は選挙により国民が元首を決める大統領制に移行した。
彼女は深く芸術を愛し、中でも詩を特に愛した。
皇帝の座を退いた後も芸術を志す者たちを手厚く援助し、かつて芸術の都として栄えた帝都は彼女の力で、その名声をますます高めることとなる。
彼女は百年の寿命を全うし、死後、夜空に上り星座となった。彼女の星座は夜の空で一際強く輝き、船乗りたちは彼女の星を目印に航海をしたという。
旅人のための星、すべての芸術の守り神として、彼女の星座は夜空に輝き続けた。
ところで。
男が最後に書いた詩は、彼女の手に渡ったのではないかとも言われている。
生前、彼女が何かの古びた紙片を見つめる姿が目撃されていた。女皇陛下は紙片を見つめて、涙を流す時もあれば、笑顔を浮かべる時もあったという。
紙片が本当に、男が最後に遺した詩だったのかは誰にもわからない。もし男の最後の詩だったとして、どういった内容なのかも伝わっていない。紙片がいったい何なのか、女皇陛下は誰に問われても明かさなかったと言う。
もしも紙片が本当に、男の最後の言葉だとして、その内容は神々でさえ与り知らないところである。
それは彼女の胸だけで光る星として、生涯に寄り添い続けたのであろう。
【了】
また新しい山に登ります。