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【人生ノート 195ページ】よりよくなることに興味を持ちだしてくると、報酬などは目的とはしないようになり、ただ完成ということを目的として努力するようになる。

真の学問


歴史というものは、国民教育の上にもっとも必要な学科である。一国民のことだけでなく、広く世界的な歴史を、ぜひ、ひととおり心得ておかなければならない。われわれの先祖は、今までどんなことを考え、どんなことをしてきたかということを知るとともに、人間というものについて、深い教訓を得ることができる。

 人類はじまって以来、何十万年になるかしれないが、その間、かれらは何をしてきたか? 接触しては戦い、戦っては和し、和しては考えと、いくたびとなくくりかえしてきた今日でさえも、なおも悟りきれずに、少数者の利害のために、多数の者の安寧幸福を脅かしているのである。これをみても、いかに人間というものが利己心の強い、ものの悟りの悪いものかということがわかるであろう。

 年少子弟の頭の中に、まず、これまでの人類の苦悩と流血との歴史が、どれほど膨大なものであったかということを、よくしみこませてやるべきである。そして人間は、今までこんなにばかげた骨折りをつづけてきて、やっと今、戦争はいやなものだと悟りかけてきているのだ、ということを教えるべきである。

 また、要するに、大宇宙すべてが真に調和してこなくては、真の幸福というものはとうていやってこないということや、まずわれわれは、この地球上を幸福にするためには、どうしても人類すべてが、真に手をとり合わなければならないということを力説すべきである。

 若い間はどうしても思慮が熟せず、偏見に流れやすい。しかも、生意気盛りには、みずからはこれを知らず、自己一流の狭小な哲学をもって、他に推しおよぼそうとすることが多い。

 いくら天才、神童といっても、年齢が足りなければ経験はあさく、人に慣れず世間を解せず、つねに円満を欠き、偏見に陥りやすい。よく長老にしたがい、内省を怠るべきではない。
 とくに青年は純であり生一本であるだけに、ちょっとしたことに、ひじょうに立腹したり、不快に思ったりしがちなものである。しかし、世の中というものは、けっして彼らが考えるように単純なものではなく、裏もあれば、裏の裏もあって、実に複雑きわまりないものなのである。このことを最初からよく理解して、きわめて寛大で清朗な気分でものごとに接する習慣を養わなければならない。

 満七歳まで││養育時代
 満十七歳まで│││訓育時代
 満二十七歳まで│││養成時代
 それ以上│││独立時代

 時々刻々、念々に進歩をつづけていかなくては、われわれの生活の価値はない。
 この意味において、われわれの感興の対象も、次第に向上していかなくてはならない。乳房│玩具│家│友達│学校│異性│世間│宇宙、というふうに年とともに移り変わっていく。これを心理学的に見れば、ずいぶんおもしろい問題であろう。

 お伽話時代を経て、少年時代は冒険小説、歴史物語時代であり、やがて人情小説にうつり、ついで哲学方面へすすみ、倫理、宗教的時代となるのである。これは、自然な人間の情緒の発達の順序である。教育もまたこの流れに従って施すのでなくては効果は少ない。

 主知的な教育がわるい。行のともなわない知はかえってあぶない。子供に正宗の銘刀を渡しておくようなもので、なま兵法は大怪我のもととなりがちだ。
 この意味で、勤労主義の教育がいちばんほんとうだと思う。

 ものに対するいろいろな機微は、どうしても理論からだけでは真につかめない。みずから実際にぶつかって悟るよりほか方法はない。だから、学者や思想家や文筆家には実際の力がない。度胸がない、腹ができていない。
 体系的な理論も何も知らない人間でも、数多くいろいろな場面、時間、人間にぶつかった人は、どこかに重みがそなわっており、信の光がある。

 学問は人をみちびく道具にすぎないのであるから、道具だけをどれほどたくさん集めていたところで、それが真にその人に利用されておらなければ一文の価値もない。利用というのは、その人を、真の意味において、向上させることなのである。
 もし、真にものの道理がわかっておれば、その人は自然に威厳があり、優雅であり、穏健であり、大胆であり、謙譲であり、親切であるべきはずである。
 どれほどの知識があったところで、人物ができていなくては何にもならない。それは一種の機械にすぎない。
 学問と人物とは別である。

 学問でも技芸でも、要するに、その人の心がけひとつで、わりと短日月のあいだに、普通ひととおりは会得できるものだ。
 いまの世の人たちは、学者を自分と飛びはなれた間隔にあるもののように思いがちであるが、これは、自己がほんのちょっとの注意と努力とで得られる知識でさえ、平素の惰性的不注意と怠惰のために逸しておりながら、他人が少し自分の知らない事柄を知っていると、これをひじょうにえらい人として、頭から尊敬してかかるくせがあるからである。

 現世の外分的な知識や技術というものは、ちょっとの努力によって案外早く得られるものであるが、霊的の三世一貫の真理を悟るということは、なんといっても、その人の魂しだいであって、たとえ目に一丁字なき人でも、偉大な悟入賢哲の士もあれば、ある専門的学術のオーソリティ(大家)といわれている人たちの中にも、いっこう、悟りにはいっていない人も少なくない。

 内的にまず変移して、そののちに外的におよぶのが順序である。いまの教育は全然、内を無視した外的教育であって、順序に逆っている。内から変わってこなくては、すべてうそである。
 よりよくなることに興味を持ちだしてくると、報酬などは目的とはしないようになり、ただ完成ということを目的として努力するようになる。

 どんな仕事でも、この境地からはげむと、どれもこれも、無限の興味にみちみちているのである。
 創造の興味、造り上げるうれしさを感じるようにならなければ、真の生活を生活することはできない。
 現界の人たちは、たいてい、第二義、第三義的に堕してしまっている。あることを完成することによって、自己の名誉をあげるとか、または、多大の物質的利益を得ようとかいうのが先になっての努力が多い。
 幼いときから、「ものを造り出す歓び」を知るように教育しなければならない。
 こうした気持ちでさえおれば、たとえ自分が一時逆境に立っても、「これをどのようにして切りぬけるか。どのようにすれば、よりよくなるか」という興味にあふれた問題をしじゅう持っていることになり、外見上は奈落の底にいても、よく自暴自棄におちいらず、ゆうゆうと全力をそそぐことができるのである。

 ただ教典やバイブルの文句をたくさん記憶していて、これを蓄音機的に人に伝えるだけでは、けっして人を教化することはできない。
 説く人に、それだけの真の体験体得があって、その人に接するだけで、自然に教えられ、化せられていくというのでなくてはうそだ。
 真の神力というものも、それぞれの真のみたまが揃わなければ、とうてい、発揮できるものではない。

『生きがいの探求』、出口日出麿著


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