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【人生ノート 191ページ】 一般に「こうあるべきだ」ということはいい得るが、つねに「こうなくてはならぬ」ということはけっしていい得ない。
理屈を好まないおだやかな、ぼんやりとしたあたたかい心が神の心である。これに反して、落ちつきのない、冷ややかな理屈っぽいのは、けものの心である。
人体は霊の宿泊所であって、自己の心と感応するいろいろな高級霊、低級霊を容れることができるのである。このように作られているのであるからいたし方がない。だから、人は常に内心をつつしみ清めて、かりにも悪を思わないようにしなければならない。常に、われとわが心を省みて、悪魔のつけこむ隙のないようにしなければならぬ。
人とつきあっても、こっちから「あいつはいやな奴だ」と思う心がちょっとでもあれば、先方も自然にその霊流を感じて「なに、あんな奴が……」という考えになってくるものである。
世の中に何が怖いといっても、人の心ほど怖いものはない。
神様のことを考えておれば、自分の部屋の雰囲気も、自然、神々しくなってくるし、人を恨んだりそねんだり、残念がったりなどしておれば、知らず知らずのうちに自分は地獄や修羅道に身を置くことになるのである。
思うことは在ることであり、生ずることである。人間は、自分の狭い心から、求めて敵をつくっているのである。たとえ自分を苦しめる者さえも、好意をもって待遇してやれば、やがて先方もその非を悔いるようになるものである。なぜならば、人の性は善であるからである。
世の、苦しんでいると称する人々の実情をみるに、その九分九厘までは、いずれも自分で自分をしばっているのである。やっていることに無理があるのである。
たとえば、小児の身に重い荷物を負わせて強いて歩かせようとしたり、にぎった手を放せば壺からかんたんに抜けるのに、そうはしないで、手が抜けん、ぬけんといって、わめいていたりする類のことが多いのである。
楽なようにしたらよいのに、わざわざ苦しいように、窮屈なようにと、しているのである。
執すればノミの飛ぶのも畢生の大問題たるべく、思わざれば、生命のおわる瞬間まで嬉戯す。
一般に「こうあるべきだ」ということはいい得るが、つねに「こうなくてはならぬ」ということはけっしていい得ない。
偉いとも思わず、偉くないとも思わず
偉いとも偉くないとも思わずとも思わず
われは逝く水のごとくに
造られしものの心は造りしものの心なり
われにあるものみな神性なり
飯も食べシリもふく 手の用は妙なるかな
美醜相交わり 正邪もとより独りあらず
明暗おのずから来たりて、いかんともいたしがたし
『生きがいの探求』、出口日出麿著
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