【人生ノート 178ページ】 見える方の掃除はしやすいが、目に見えぬ方の、心の掃除はおろそかになりがちである。
清潔主義
さて、皆さんの中で毎朝起きて顔をあらわない方はない。まあ尾篭な話でありますが、日に一度や二度、大小便をなさらぬ人はないはずであります。女の人なら鏡を見ないという人もない。三日に一度ぐらいは風呂にはいらない人も、まず稀であろう。またどこの家でも、一日に一度ぐらい、さいはらいをあて、箒で掃かないという家も少ないと思います。それほど掃除をしておっても、ともすれば座敷の隅やら障子の桟には塵埃がたまっている。知らぬ間にたまっている。で、一年に一度や二度は特別の大掃除をせねばならぬのであります。天地においても同様でありまして、
時々の清潔法が行われている上に、定期または臨事の大掃除が起こるのであります。
目に見える身体とか家とかを、それほど掃除しておっても塵埃がたまりやすい。目に見えぬ心の方の掃除を、われわれはどれだけしているでしょうか。顔をあらう程度に毎日こころをみがいているでしょうか。鏡を見る程度に毎朝省みているでしょうか。あるいは春秋の大掃除ほどに、ときどき潔斎しているでしょうか。身体ばかり、目に見えることばかりに一生懸命になっていても、目に見えぬ心の方面の掃除はちっともしていない。自分にたまった塵あくたは気づかず、目にほこりがあることは知らずに、世の中はきたない、臭いというようなことばかり言っている。あにはからんや、自分の身体に垢がたまっている。それはちょうど自分が垢をためているから虱や蚤が湧く。それを自分が不潔にしていたから湧いたのを、そんなことはそっちのけで、蚤や虱を親の敵のように思って、悪口ばかりいうているのと同じことであります。世の中にはそういうことが一面、多いのであります。つまり私の申しましたのは、見える方の掃除はしやすいが、目に見えぬ方の、心の掃除はおろそかになりがちである。見えぬ方の掃除は見える方よりは、より以上に
懸命にしなければならない、心掛けねばならないということを申したのであります。
『信仰叢話』清潔主義 出口日出麿著
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