【人生ノート 203ページ】 えらいというのは、腹の大きいということなのだ。腹の大きい人ということは、怒るときに怒り、泣く時に泣くことのできる人なのだ。
どんな仕事をするにも、まず人間が融和しなければ、とうてい満足なことができるはずはない。
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人間というものは、十日や二十日つき合ったくりで、その本音が聞かれるものではない。
いわんや、第一印象がどうのこうのと言ったって、一向あてになるものではない。
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やる時には、悪いことも思いきってする代わりに、ここだと思うときには、生まれ代われる人間でなくちゃ、いたずらにコセついて、ソワソワしているにんげんほど頼りないものはない。
いまの世は、この小才ばかりがヒョコヒョコしているのだ。見栄ばかりがいくあ良くても、腹の底がフラフラでは、すぶ内かぶとを見すかされる。
癇癪もちくらいの人間でなくちゃ仕事ができるものではない。メソメソと話をしても、どこに要点があるのやら、考えてみても分からんような人間は屑だ。
普通一般の道徳家などという連中は、大抵は肝っ玉の小さい、吹けば飛ぶようなざまでいながら、肩のこるのに四角ばっている連中なんだ。石川五右衛門やネズミ小僧らの方がよっぽど真実の人間だ。
えらいというのは、腹の大きいということなのだ。腹の大きい人ということは、怒るときに怒り、泣く時に泣くことのできる人なのだ。
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実際、心に思ったことを外にドンドン表わすことが真の生活なのだ。
善だって悪だって、人間どもが勝手にこさえた名称に拘泥しなくてもいい。
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係累さえなかったら、俺はあくまで気分本位に、刹那主義に生きてゆくんだがな。
『信仰覚書』出口日出麿著