【人生ノート 181ページ】 いろいろな境涯をへて来たあとでなければ、人は、何もできるものではない。
各自は各自の生き方をもっている。すなわち、独特の様式の言動にしたがって動いている。これは簡単にいえば癖である。
ある者は、つねに積極的に、それだけ、また自己的に、いわゆる、出しゃばり屋であり、ある意味において、無智であり無鉄砲であり無自覚である。
ある者は消極的に、引っ込み思案であり、臆病であり、狐疑的であり、打算的である。ある者は一切を軽蔑し、罵倒してかかり、ある者は、一生、のほほんで過ぎる。
歩き方にもいろいろあり、挨拶の仕方にも種々ある。みな、それぞれの様式を発揮しているから面白い。
各人の特性は、茶碗の持ち型、箸のにぎり方にまで現われているから致し方ない。
霊性の複雑な人は、その様式もまた複雑でなければならぬ。ものを簡単に考える人は、ちょっと見ると、いかにも楽天家であり、無邪気の人のようであるが、一面からいえば、浅いのである。こうした人にかぎって、一朝、悲境におちいるや、自暴自棄になりやすく、ものの真諦を見きあめるという力をやしなっていないから、一つつまずき出すと、ズンズン底へ底へとめいり込んでしまいがちだ。
やはり、どう考えてみても、人生に一番貴いものは体験である。体験の深刻な人、豊富な人ほど、どことなしに輝いている、落ちついている。いろいろな境涯をへて来たあとでなければ、人は、何もできるものではない。
この意味からいって、われわれは何をしていても、させられていても「有難い」のであり、「結構」なのである。
ものを見分ける力んおない者が上に立っていたら、もはや、その事業の底は見えている。
人の世は、まァざっと、こんなものだということを悟って、小さいことにビクビクしたり、善じゃお悪じゃのと、ちょっとしたことに激動してはならない。あるままが世であり、成るままが世である。
同情心や慈悲心は、どんな人間でも持っている。ただ、自己と道程殿同情心、慈悲心だけである。神の大慈大悲は大局的であるから、ちょっと人間の目には分からないのである。
人間こころを出して、強いて事をしてはならぬ。自然にまかして、きわめて無理のないように心がけねばならぬ。いや、心がけるというのが、すでに人間心かもしれぬ。なるようい成らしたらよいのだ。
「神さま!」ということを一心に思いつめている人は、かならず向上してゆく。自分が向上してゆけば、自然に考え方がかわってゆき、見方がちがって来る。
『信仰覚書』第五巻、出口日出麿著
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