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【人生ノートMagazine】一心が神に通じぬ筈は奈い

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人生ノートの中から信仰とはなんなのか、神さまの世界について触れている部分をまとめてみました。
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#気づき

自己に負けている人

人生はお互いに思い思われて、なつかしく、ありがたく感じ合うところに本当の幸福がある。 ○ ものの成るかならぬかは、その人の一心になるかならぬかによってきまるものである。 ○ 自分で自分の悪い気持と戦うということは必要である。 こうした難関を一つ突破するごとに、少しずつ、一般的邪悪をも征服する力がついてくるのである。 つねに自己に負けている人は、いつ迄たっても霊的向上をなし得ない人である。 外的にも内的にも、つねに自分に楽な仕事ばかりしている人は緊張をかくから、役に

天の声

人がきて、なにげなく話していくことのなかに、ふだん気づいていないことを教えられることがあります。それは、自分と関連のない話のようであっても、なにかの意味をもっていることがあります。 意味なく人がきて、意味なく話していくということは、ほんとうは、ありえないことではないかと私は思います。人がなにげなく話していることのなかに、天の声がさしはさまれているかもしれません。 めんどうでも、さっそく実行しなければならない場合もありましょう。かりに徒労におわっても、その徒労がありがたいこ

理想を見つつ、現実を離れず

理想を見つつ現実を離れず、しかも現実を一歩ずつ向上させねばならぬ。 永遠を仰ぎつつ現在を離れず、しかも現在を一歩ずつ向上させねばならぬ。 無限法界を解するとともに今界を会得し、しかも一歩ずつ今界を向上さすことい努めねばならぬ。 ○ 無限に為し 無限に省み 無限に悟れよ 出口日出麿著『信仰覚書』第三巻、無限に悟れ これまでのお示し 

日常行為と実行の心得

すべて、現在、自分の感じ、考えることは、すなわち、目下の自分の属している霊界を示しているのである。 直霊に省みて、自分ながら、いやらしく、バカバカしく思うようなことを感じ、考える時は、これあきらかに、自分が副守護神になりきっている時であり、晴々として愉快を感じ、考えもこれに伴う時は、これ明らかに、正しき霊と感応している時である。前者の場合には大いに慎み省み、克己忍耐して、努力して神に近づくように心がけ、身をへり下りて、人と争わぬようにせねばならぬ。そしていろいろの雑念を去っ

焦らず、あわてず、おどろかずー安心立命の秘訣ー

相応の理によってでなくては、何にとつ出来るものではない。 地球には地球相応の真理有り、現代には現代相応の策あり、獣には獣相応の道を存す。 赤子に論を説くをやめて、アメ玉をねぶらせよ。餓死せんとする人に天国を説くも、なんの要かあらん。これを救うは、一椀の食のみ。 黙するも悟る人あり、説いて分かる人あり、打たれて始めて知る者もあり、言わねばならぬ場合あり、言うてはならぬ時もあり。時処位によりて千変万化、それぞれの機をとらえて過たざるを真人となす。 ○ 長しといえど、ふん

反省と忍耐

導かれる方の人は、決してあせってはいけない。一日一日、一歩一歩と悟ってゆき、進んで行くようにせねばならぬ。これらの人々にとっては、反省と忍耐とが何よりである。この二つを忘れぬように、そして導かれるままに、一心不乱にすすんで行きさえしたらよい。 反省することは、真に“知る”唯一の手段である。内に省み外に省み、ここに始めて自己を知り他を知り、やがて神を知ることができるのである。反省のないところに改悟はなく、自らの改悟のないところには新生はない。 永久に同一世界にうごめいている

その日その時のベストを尽くして

何事も神意にまかして、あせらず、あわてず、その日その時のベストをつくして、一生を一日のごとくに悠々とおくる工夫をせねばなりません。 天国へ行くのも地獄へ落つるのも、みな自分自身が平素からの心の状態がつもりつもって、必然的にそうなるまででありまして、けっして、神さまが連れて行かれるものでも、また社会がそう強いるものでもありません。みな、みずからの心の持ち方ひとつが作り上げるのであります。 『信仰覚書』 出口日出麿 これまでのお示し 一歩一歩の歩みに全力をそそぐ https

決心ひとつ、心ひとつ

人間が生まれてから一生何をしたかわからず、また自分で、何のために生きとるのやらわからず、終わってしまうということほど不幸なことはないのであります。いわゆる酔生夢死というて、ただ飯食うて生活のために一生懸命はたらいて、一生何かに追い使われるような気分で過ごしてしまって、さて、何を知ったか、何を悟ったかというようなことになると、なんにも得たところがない。 世間につれ代につれて、風があっちへ吹けば向こうへ行き、波がこっちへ立てば、こっちへ打ち上げられるというようなことで、自分で何

神のひとり子、出でよ

七むずかしい理屈を知っている人は仰山いる。しかも彼らは、何もなし得ない。せいぜい、書物をあらわしたりするくらいのものだ。 学識という点からいうと、キリストにどれだけの素養があったか。ナポレオン、ジャンヌダークにどれだけの素養があったか。 人間の魂を、直接、うごかすものは何か?それは、人間の、より偉大なる魂である。 理屈はもう結構だ。理屈を超越した偉人が出さえすればよい。目に一丁字なくて結構だ。目にもの見せてくれる真人さえ出れば文句はない。 こんな紛糾した世の中には

生きていることに興味を持つこと

何事でも、出来てしまえば思ったほどでもないもので、その前に、いろいろと勝手な想像をめぐらすことによって、 楽しくもあり、まt悲しくもあるのだ。 そして、人間の真の生活は主観であるから、その人の心の持ち方ひとつで、世の中は楽しくも苦しくもなるというのである。 他人から見たら、乞食のような生活をしていても、心の中に天国があれば、見るもの聞くもの、天国のものばかりである。これに反して、外見は王侯のような生活をしていても、心が闇にとざされていたら、見るもの聞くもの、黒い影ならざ

神さまは無邪気をもっともお喜びになる。

神さまは無邪気をもっともお喜びになる。気どったり、様子ぶったり、威張ったり、強がったりするのが大嫌いである。奪ったり、打ったり、はったり、勝ったりでは、まるで合戦だ。神の国には合戦はない。 心の内と身の外との一致した純真な、他人に対して露ほどの邪気もない人は、きっと天国者だ、しあわせ者だ、及第者だ。 執拗な、利己心一方の人間ほど始末におえぬものはない。それは決して、その人本来のみたまが、そうあるのではない。ちょっとした罪から、他の悪しき霊と感応して一緒になっているからであ