梅え鰯たれ
自家製梅干しもどきを使った料理第二弾。第一弾は以下へどうぞ。↓
日本人にとって昔から馴染みある食材二つを合わせて料理しながら、これまで取り上げた人物の話で書き切れなかった逸話や、後から知った話等を妄想した記録。
鰯 4尾
梅干し 4個
生姜 1欠け
醤油 大匙3
味醂 大匙3
酒 大匙2
酢 大匙1
水 250CC
黒摺り胡麻 適量
現代の日本で花と言えば、桜を連想する人が多いかと思いますが、昔は花と言えば、梅の花がポピュラーでした。
平安時代の学者で政治家の菅原道真が梅の花を好んだことからも、それが窺える。
道真を祀る太宰府天満宮の参道には、梅が枝餅を売っていますが、これは別に梅味ではなく、餡子餅を焼いた物。
無聊を託っていた道真を喜ばせようと、地元の老婆が焼いた餅に梅の枝を添えて差し入れたのが始まり。
因みに同じ福岡県の宮地嶽神社の参道には松ヶ枝餅という名物。餡子が入った焼餅で、どこが違うの?という感じ。
その梅の実から作った梅干しは平安時代に書かれた最古の医学書「医心方」にも薬として登場。
皮膚の荒れや下痢止めに効果あり、口の渇きを止めるとの薬効。
その効果を証明するかのように、戦の時には梅干しを携行する者が多かったといいます。
梅干しを見ると唾液が出るので、それで渇きを癒せということ。
関東に五代に渡って君臨した後北条氏の礎を築いた北条早雲こと伊勢宗瑞は、そのことをよく知っていたようで、梅の栽培を奨励。
頭を取ってしまいましたが、「鰯の頭も信心から」ということわざ。
これは鰯の頭のようなつまらない物でも、信じる人には大切な物となる例え。
節分の日には昔、柊の葉と鰯の頭を玄関に飾るという習慣がありました。
鬼が棘が付いた柊と鰯の臭いを嫌うという迷信があったから、魔除けということ。
鰯を好きだったのが紫式部。↓
大量に取れて安価な鰯は、平安時代には貴族階級が食べる物ではないとされていました。庶民が食べる物を身分が高い者が食べるのははしたないということ。
それでも鰯をこっそりと食べていた紫式部ですが、臭いのせいでバレてしまった。
鰯は食べるだけではなく、干した鰯は干鰯と言われて畑に捲く肥料になった。
塩漬けにした鰯は赤鰯と言われ、保存食。
そこから転じて、赤くボロボロに錆びた刀は赤鰯と呼ばれて馬鹿にされました。
刀といえば武士の象徴。名のある武士にも鰯は好まれました。質素倹約を旨とする武家にはよく合うということ。
保存食である赤鰯は兵糧として携行されることも多かった。
戦国時代、九州三大勢力の一つにまで伸し上がった龍造寺家の家老で、江戸時代には佐賀藩の藩祖となった鍋島直茂には、鰯がかかわる恋?の逸話。
鍋島直茂については以下をどうぞ。↓
出陣の途中、直茂率いる一隊は石井兵部の屋敷に立ち寄り、食事にすることに。その時、兵部は鰯を焼いて将兵に振舞うようにと家中の女子衆に命じるが、大人数のためになかなか焼き上がらない。
見ていてじれったくなったのは兵部の娘。
大釜の下から真っ赤な炭火を掻き出して、庭に広げた上に大量の鰯を並べて、大団扇であおいで火勢を上げて、一気に焼き上げる。
この手際の良さに感じ入った直茂。
「そなたに惚れた」ということで石井家に足しげく通うようになり、やがて二人は結婚。
鰯が取り持つ縁となったとさ。
それにしても恋って相手の人柄とか容姿に惚れそうなものですが、鰯を焼く手際の良さに惚れたというのは、レストランのオーナーが料理人の腕前に惚れ込んだように聞こえて、それって恋愛感情と言っていいのか?
腕前のいい職人をスカウトしたみたいにも思えてしまう。
生姜と風味と梅の爽やかな酸味が鰯の青魚くささを緩和。これで紫式部も臭いを気にせず食べられる?
抗酸化物質の宝庫、胡麻の香ばしさも加わる。
鰯にはカルシウムやタンパク質ばかりではなく、DHAやEPAという不飽和脂肪酸も含まれていて、優れた健康食品。
梅干しにも鰯にも優れた疲労回復効果。
大久保彦左衛門という武士がいました。
江戸時代初期の旗本ですが、芝居や講談で「天下の御意見番」と呼ばれて、魚屋の一心太助が担ぐ盥に乗って江戸城に登城して、三代将軍家光に市井の声を届けたと言われる人物ですが、この人も質素倹約を心掛け、鰹節と鰯を常食。
かって、共に戦場を駆け回った井伊直政が病となった時、見舞いに訪れ、
「今、そなたは大名となり、ぜいたくな暮らしをしているから病になるのだ。昔のように質素を心掛けられよ」と言葉を掻けたといいます。
御意見番とか一心太助というのは芝居の脚色かもしれませんが、彦左衛門は「三河物語」という徳川家の成り立ちや家臣の奮闘を記した書物を遺しました。
鰯は質素な粗食ではなく、栄養素ある素食でもあることを知っていたのだと思います。
そんなことをあれこれと妄想しながら、梅え鰯たれをご馳走様でした。