コーリー・スタンパー『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』
この感想を読書メーターに書いたのは、もう4年ほども前になる。こちらの本の感想である。
メリアム・ウェブスター社はアメリカ最古の辞典出版社であり、著者コーリー・スタンパーはウェブスター社の辞書編纂者である。
辞書の編纂者とは日本もアメリカも同じなんだなと、つくづく感じる。こつこつと用例を収集し、悶々と語釈に悩み、黙々と現代語に向き合う。そういう人たちだ。
さて。
本書の目次である。
Hrafnkell 辞書編纂者の偏愛
But 「文法」の誤解
It's 繁茂する英語
Irregardless まともじゃない言葉
Corpus 骨を拾い集める
Surfboard 語釈の宿命
Pragmatic 無感情で実用的な用例
Take 小さくも厄介な言葉
Bitch よろしくない言葉
Posh 語源をめぐる妄想
American Dream 初出という旅
Nuclear 発音と教養
Nude 肌色は何色か
Marriage 権威と辞書
ちなみに、メリアム・ウェブスター辞書はアプリが無料でダウンロードできる(広告あり、アプリ内課金あり)。アプリをダウンロードしてウェブスター辞書を引きながら読むのもまた一興。
いくつか思うことを書いてみようと思う。
Hrafnkell 辞書編纂者の偏愛
「Hrafnkell」。いきなり読めない。読めないのは私が英語に疎いというだけではなくって、おそらくは英語に長けているであろう方にも読めないだろうと思われる。これは古ノルド語なのだそうだ。ノルド語が何なのかを私は知らない。ましてや、「古」が付くとなるといよいよわからない。発音だって想像も付かない。
H の後に r ?
f の後に n ?
フル?
フン?
フルでもフンでもなくって、著者によれば次のように発音するのだそうだ。
と言われてもよくわからん。この「フラァップkげー」とやらは著者が学生時代に学んだ「中世アイルランドの一族のサガ」とやらに出てくる主人公なのだそうだ。そう聞くと・・・さらにわからん。そういうようなことを嬉々として学んで、そして卒業後ウェブスター社にウキウキと入社したという、とってもチャーミングな方なんである。なので、わからないこともたくさんあるんだけれども読んでいて楽しい。
メリアム・ウェブスター社で辞書編纂者になるための条件は2つ。
学位を授与されていること
英語の母語話者であること
英語の母語話者であれば、
“the cat are yowling” が文法的に間違っていて
“the crowd are loving it!” がイギリス的だ
ということがわかる。
らしい。
が、私にはちっともわからん。いったい全体どこがどう文法的に間違っていて、どこがどうイギリス的なのだろうか(わかる方がおられましたらどうか教えてください)。
But 「文法」の誤解
“a”、“an”、“the”は冠詞である。冠詞のはずだ。しかし。
「a」が前置詞?
「the」が副詞?
そんなことって、あり?
six cents a mile
35 miles an hour
$10 the bottle
これらの“a”、“an”、“the”は前置詞だという。
うーん。冠詞だとすると単に名詞と名詞を並べただけで「~につき」という意味につながらない、ということなのかな。だから前置詞?(わかる方がおられましたらどうか教えてください)。
でも、日本語にだって、「1個50円」というような言い方をする。ここに助詞も何もない。英語にしたって「six cents」と「a mile」を二つ並べただけ
という考え方にはならないのか。「cents」と「mile」の間に位置する「a」は二つをつなぐものでなければならないのか。
ちなみに、翻訳アプリで「1マイルにつき6セント」を英訳すると「6 cents per mile」となる。そっか「per」があった。というか、ここは冠詞がいらんのか。
the sooner the better
こっちの「the」は副詞。
本書では、どちらの“the”も斜体になっていたんだけど、どちらも副詞ということなのかな。
「sooner」は「soon」(副詞)の比較級?
「better」は「good」(形容詞)の比較級?
それに「the」を付けるん?
わからん(わかる方がおられましたら〈以下、略〉)。
そう言えば、英和辞書でも幾つも品詞が書いてある単語があったと、今になって思ったりする。例えば、この章のタイトルにある「but」をウェブスターで引いてみる。すると、こんなに品詞が並ぶ。
conjunction 接続詞
preposition 前置詞
adverb 副詞
pronoun 代名詞
noun 名詞
なんと! 私は接続詞しか知らなんだ。
というか、1つの単語に、なんでこんなに品詞があるのか。接続詞と前置詞とならまだしも、代名詞に名詞とは。“but”の名詞とはなんぞや。もういい、後で調べる。
たくさんの品詞を抱えるようなそんな単語が、日本語にあるだろうか。試しに、国語辞典で「しかし」を引いてみる。
最後の用例は妄想を生みそうだ。
いや、そんなことはどうでもよくって、そう、品詞は「接続詞」のみである。「しかし」を名詞で使ったり、ましてや代名詞で使ったりもしない。「行動」という言葉は名詞だけれども、これをそのまま動詞にはしない。動詞にするときには「行動する」のように「する」という動詞をつける。動詞「する」の語義には次のようのものがある。
どうでもいいが、広辞苑の用例が古すぎてピンとこない。徒然草とか平家物語って・・・。
それはともかく。
ざっと見たところ、国語辞典に品詞が複数ある語彙を見つけるのは容易ではなさそうだ(「しかしながら」には「接続詞」と「副詞」があったが)。
だいたいにおいて、英単語は品詞のみならず語義さえもが多い。多い。多すぎる。英和辞典をひくと、たまに1ページを超えて語義のならぶ単語がある。大抵は、“go”だの、“make”だの、“take”だの、シンプルな単語に多い。本書では、“take”の語義の見直しに1ヶ月を要している(しかも休みなしで?)。別の方などは“run”の語義見直しに9ヶ月もかかったそうだ。というか、OEDでは600を超える意味が記載されているらしい。600! その中からこれはと思う語義を探し出せと!
試しに“run”を英和辞典で引いてみたら、動詞の語義が26、他動詞が33、名詞が22もある。ウェブスターをひいてみても動詞15、他動詞16、名詞12、形容詞3もある。形容詞? “run”の形容詞的用法って、どんなんだろう。ああ、いいや、後でみてみよう。キリがない。英和辞典の方が語義が多いのも面白い。ウェブスターと比較するのも一興か。
いずれにしても、このように語義の多い単語の意味は、おそらくは文脈で判断するのだろう(多分)。英語を母語にする方々にとっては、それは当たり前のことなのかもしれない。日本語から英語を習得する難しさは、こういうところにもあるのだろうか。
It's 繁茂する英語
“its” vs “it's”
アポストロフィがない場 vs ある場合
it's は it is もしくは it has の省略形
its は所有格
これを書き間違える人というのが、少なからずいるらしい。間違えると『雷に打たれ、滅多切りにされて、無縁墓地に葬りさられても文句は言えない』のだそうだ(リン・トラス『パンクなパンダのパンクチュエーション:無敵の英語句読点ガイド』)。というのはジョークとは思われるが(多分)、この所有格の「it's」にいちゃもんを付ける人もまた少なからずいる。日本語で言うところの「ら抜き言葉」みたいなものか。ここで「いやしかし」と苦言を呈するのが、著者コーリー・スタンパーだ。
何故だろうと問いかけてこう答える。
さらに。
惚れ惚れする文章だ。ついつい『行く手を阻むものすべてを破壊する巨神』とやらを妄想してしまふ。英語という言語に対する著者の想いが、このような形で随所に現れる。
何億という人間が口にする英語を統制しようだなどと、どだい無理な話である。にも関わらず、嘆かわしい無知だ、美意識の劣化だ、英語文体の堕落だと言っては、英語はかくあるべしと訴える人々は後を絶たない。この「後を絶たない」というのはなかなか面白い現象で、ある言葉の変異がようやく定着しそこに文句する人がいなくなった、もしくは少なくなったとしても、また新たに「言葉の乱れ」を見つけては「最近の英語は」と嘆く人は必ず現れる。そしてその嘆いている人もきっと、知らず言葉を変えてきているのである。言葉とはそういうものだ。
Surfboard 語釈の宿命
著者はかつてこういう語釈を書いたことがあった。
日本語も並記しておこう。
この語釈で彼女は深刻なミスをした。それが何かおわかりだろうか(ヒントはこの記事中のどこかにきっと)。
語釈とはかくも難しいものか。本章を読むとそう感じる。辞書編纂者ではない一般ユーザーが定義した「hella」という単語の語釈に頭を抱え、新しく見つけた“cynical”の用例が既存の語釈で説明しきれないのではないかと悩む。
“surfboard”の語釈を定義して練習してみますか?
Pragmatic 無感情で実用的な用例
用例を選ぶのなんて(巷の書籍雑誌その他諸々から)簡単。用例を書く(例文を作る)のなんて簡単。なわけない。いろいろなルールがあるんだもの。
まずはジョークなし(えー! そんなむちゃな)。
さらには、他に妄想できるような表現もなし。
“That's a big one!”〈あれが大きいなぁ!〉
なんて却下だ。
ついでに、
“member”〈メンバー〉も
“organ”〈オルガン〉も
ダメだ、ダメなんだ。
何故“member”がダメなのか。わからなかったら、ウェブスター辞書で“member”を引いてみてくれ給へ。語義のトップに出てくるから。
(ウェブスターは語義が発生した順に記載していると言っていたから・・・え・・・元はソンナ意味だったのか)。
“wind”の用例なんてのも注意だ。
(ウェブスター辞書 語義4・・・まさか、そんなことが)
そして、次の関門が名前。もちろん固有名詞はアウト。のみならず代名詞だって気をつけないと。だって、ほら、英語の代名詞は性差があるから。ひとつ間違うとジェンダー問題を招きかねないわけで。
Take 小さくも厄介な言葉
そう。これはおそらく想像がつくかもしれない。というか、既に言った。語義が膨大なのだ。
“take”というのは、実にいろいろな場面で使われる。
“crap”だって、
“walk”だって、
“breather”だって、
“nap”だって、
“break”だって、
“take”出来るんである。
(意味わからんかったら、DeepLに聞いて!)
ということは用例だって膨大だ。コーリーはその用例の山をむんずとつかみ、語義ごとに振り分けていった。語義毎に用例の山を作っていく・・・。
そして2週間・・・。
山はモニターの上、引き出しの上、キーボードの間、デスクの間仕切りの上、デスクの下のPCの上、そしてさらには床の上にまで侵食した。ようやく分類を終えて語釈の修正は翌日に回すことにして帰宅しリフレッシュする。
そして翌朝・・・。
床の上の用例の山もリフレッシュしていた。清掃会社のクルーによって。だって、そのままじゃあ、掃除できないんだもの。と言ってまさか捨てるわけにもいかないし。清掃会社のクルーたちは床の上の用例の山々を椅子の上にまとめてどっさと置いておいたと、こういうわけ。
それを目の前にしてコーリーはというと。
クスクスと笑ってしまふ。ごめんね、コーリー、人の不幸が楽しいわけじゃあないの。でも、やっぱり笑いは押さえられないわ。ああ、でも、気持ちはわかる。私もかつてキーボードで「rm -f *.c」と打ってしまった時はそのまま3分は硬直して血の気が引いていくのをゆっくりと感じたことがあるから。
(注)「rm -f *.c」とは、プログラムのコードを確認もせずにきれいさっぱりと消し去るとんでもないコマンドである。
Marriage 権威と辞書
2003年。ウェブスター辞書は「marriage」の語義に次のものを追加した。
同姓の相手と、従来の結婚のような関係で結ばれた状態
しばらくは何もなかった。
「うんともすんとも言ってこなかったよ。なにもだ。ずっと待ち構えていたんだが」
2009年3月18日。状況は一変する。きっかけは『ワールド・ネット・デイリー』に掲載された「ウェブスター辞書が“marriage”の語義を変える」と題した記事だ。同性婚の語釈追加に関する否定的な内容である。これをきっかけにクレームメールが怒涛にやってくる。最初に開けたメールはこのように始まっていた。
「拝啓 “marriage”の語釈を変え、同性間の性的倒錯を含めるという御社の決断は恥さらしとしか言いようがありません」
これはまだましな方だ。「うちの子どもたちの心を汚そうとしている」「出しゃばるな!」「いい加減にしろ」「消え失せて死んじまえ」「ガラスの破片入りの酸を飲め」とまで言われる。そして、地獄に招かれたのは13回。
何故そうなるのか。
著者はこう言う。
『これは一般の人、特にアメリカに住む人が、辞書を権威あるものとして考えるようにすりこまれているためで、「辞書」の言うことは大きな意味を持つのだ』
更に、その「権威あるものとして考えるようにすりこまれ」たことには、辞書出版社側にも責任があるという。なんとなれば、それまでその権威こそを辞書の売りにしてきたからだ。それで刷り込まれた「権威」が、時に辞書を攻撃する。
著者が回答した内容を引用する。素晴らしい文章だ。
辞書から言葉を消し去っても、人間のその行動はなくならない。“murder”〈殺人〉も、“war”〈戦争〉も、“discrimination”〈差別〉も、“poverty”〈貧困〉もそこにある。辞書を責める前に、まずは人類のその負の部分を正すべきだ。
辞書は、こらからもずっと人間を言葉を見つめ続け、いつもいつもそれを写し取ってゆくだろう。
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