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メルティ・ガールに恋をして
考え事の間に入浴が終わっていた。髪が湿っているから一先ず洗髪はしたのだろう。今日が無意識のうちに過ぎ去っていくような、午後11時58分。
珍しく恋人のアンジュと喧嘩をして、我が家に泊まる予定が帰られてしまった。
僕は以前、初対面で困り果てた様子の中年男性に交通費として1,000円あげたことがある。
どこぞでICカードを紛失したという相手の「必ず返します」を「いーえ。滅多にここの路線使わないんで、貰っといてください」などと。
混雑を極めた駅の片隅で言葉を交わし、本当にそれきり会っていない。
汗で肌に張り付いたシャツ、スラックスの感じ、彼が父親のように見えた。
そのエピソードを、交際前のアンジュは「優しくて素敵」だと褒めたが、今や「耳にタコができるほど聞かされてうざい」とのことだった。
「イッセーはさぁ。そんなの自慢げに何度も語るぐらいなら、近くの人をもっと大切にしなよ」
彼女は僕が作った夕飯を心底つまらなそうな顔で食べながら、言い放った。
腕によりをかけたメニューさえ味がしないかの如く。唯一の「これ、おいしいね」は余物のマカロニを茹でて市販のパスタソースで和えただけのおかずであり、虚しさに似た風が吹き荒れる。
喉まで出掛った「お前が言うな」をポトフの野菜と共に煮込んだ筈が、いつのまにか溢れており、僕の手に負えなかった。
アンジュは耳のラインで切り揃えたショートヘアが特徴的な、まあまあ普通の専門学生で、奥二重のつぶらな瞳、ぺたんこの鼻、元々赤みを持つ唇、ともすれば僕の服を無断で借りがちな拘りのなさが異性の友人をわんさか連れて来る。
同じ科の別コースで学ぶ僕らは春に出会い、彼女の「えぇっ、ひとり暮らしなの? じゃあ私、イッセーのおうち行きたい」によって自然と恋人同士になった。
向こうは実家に住み、生活力が皆無と言っても過言ではなく、自分が世話をする。
僕はアンジュよりも少しばかり髪が長い。波打つパーマをかけて(毛先のみ跳ねるように)、太眉が存在感を放ち、一重瞼で顔は薄味だ。
率直に述べると家族仲が悪く、追い出される形で学生の多いアパートにやってきた。
さておき、付き合ってから半年が経とうとしている。
この喧嘩をきっかけに関係を見直すべきか。
僕はあくまで〈彼氏〉であって、アンジュにとっての兄または親になりたくはない(しかも、居て当たり前、雑に扱っても問題なしの)。
焼き菓子に粉砂糖を振りかけるような愛情を注いで、ああ言われたら当然、腹が立つ。
溜め息を吐き、ベッドに転がった。瞬間、がさっと音がして、急いで起き上がる。
シーツと枕の間からスーパーマーケットの黄色いレシートが現れてがっかり、だが、裏に『ごめん。構ってほしかったの』見慣れた丸文字でハートマークだらけの、メッセージが書かれていた。
「こんなんに騙されるとでも?」
冷ややかに笑い、毛布を被る。気持ちまでもが冷め切ってしまう前に。
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翌朝、学校で彼女を見掛けた。
普段と違って友人に囲まれておらず、ビッグシルエットで裏地がボアの新しいブルゾンを羽織った僕を素早く捕まえ、
「聞いて!」
とグリッターラインが若干、眩しい目を輝かせる。
「家政婦に振り回される夢見た、物理的なやつ」
喧嘩の続きかと思いきや、一気にふにゃふにゃと力が抜けた。馬鹿らしくて昨夜のことがすぐさまどうでもよくなる。
「すんげぇ怪力」
僕が返せば、アンジュは人前にも拘らず堂々と腕を組んできて、囁いた。
「大好き、イッセー」
嗚呼、もう。堪らなく愛おしい、許す。