最後の車で旅に出よう
友人らに見栄を張るべく買ったブランドバッグが、使わないままボロボロになる。
通販サイトのセールでいざ手に入れたはいいが、部屋に飾り、4年半経ってみると、どうだ。
換気の風にさらされ、職業柄(現在は介護関係)ランチや飲み会を控えて過ごせば段々と疎遠に、寧ろバッグ云々より高校時代からの友情が長年、続いたことの方がすごかった。
ワタシには息子と娘がひとりずついる。
やっとそれぞれ巣立っていき、結婚には興味がないようで、当然まだ〈おばあちゃん〉ではなく、神経質な夫とふたりの生活は、窮屈だった。
時折、どうしておよそ30年前に彼を選んだのだろうと思う。
「こっちの台詞だよ」
と言ってせせら笑う姿が目に浮かぶ。
そう、昔は同じビルの違うオフィスで、あなただけが輝いて見えた。近頃は広い額(おでこ)がキラキラして、庭の草むしりに午後を費やす。
誰かが憧れるような暮らしではなくとも、幾らかローンが残ったこの家には、ワタシたち家族の物語がある。
勿論、駐車場にとめた車にも。
急な雷が眠気を吹き飛ばし、怯えながら慌てて洗濯物を取り込む際、ベランダから愛くるしいクラシックカーがちらり。
一目惚れの茜色、夫に話しても「いまいち分からん」と返された。
あれがワタシにとって、最後の車かも知れない。
「お父さん! 雨降るでしょ、もう。終わらせて」
そこで追想には耽らず、裏庭に向かって呼び掛ける。あの人は躍起になりやすいので、取扱注意、私が傍に居なければ。
洗濯物を畳んで抱え、ゆっくりと階段をおりると、土の臭いが廊下の突き当たりまで漂い、手を洗うついでにシャワーを浴びているらしかった。
夕飯は何にしようか。子供の如く好き嫌いが多い〈お父さん〉だが、きんぴらごぼうなら喜んで食べてくれる。
こうして代わり映えのしない毎日ができあがる、これもまた幸せと自分に言い聞かせて。
「もしも願い事がひとつ叶うとしたら、お母さんは?」
以前、娘に問われたことがあった。
若返る、海外旅行、などが頭の中を駆け巡った結果、娘と違って「別人になりたい」とは考えず、純粋に「どこかへ行きたい」と答える。
最近その気持ちが再び湧き上がってきた。
という訳で県内の温泉をタブレットで探していると、風呂上がりの夫が覗き込んで
「日帰りじゃなく、紅葉狩りを兼ねて、近場の旅館に泊まらないか。こっから予約すれば丁度いいだろ」
と言い出す。来月の話をされても、こちらは来週の計画を立てており、微妙なすれ違いに頭痛を感じる。
「或いは……観覧車に乗って、やや高めのカジュアルなレストランでディナー、夜景を眺めながらまったりドライブ、とか」
「若い人のデートみたいなコースね」
「真面目な話だぞ。たまには〈お母さん〉を休んで。お互いに役割から離れて、ただのオレとキミでいよう」
軽く受け流したつもりが変化球にときめく。
一瞬で交際したての記憶を呼び起こす、彼はさながら魔法使い、しかし、ワインが好きなので十中八九、車の運転はワタシ、ロマンチックが半減した。
「ふーん。楽しそうだこと」
「前向きに検討してくれ」
懐かしの歌謡曲を聴いて、思い出話に花を咲かせる。あくまで理想の光景であり、実際は運転に文句をつけられ、些細な言い争いの道中、にも拘らず、ワタシはたんすを引いて真っ白なブラウスとセンタープレスパンツを体に当てた。
姿見を確認すると、悪くはない。
昨年、息子が母の日に送ってくれた大判のストールは秋でもさっと羽織れる。
ここまで生きてきて、最も辛かったのは息子が小学生の頃から原因不明の不登校に陥り、せっかく合格した高校にさえ通えず、閉め切ったドアの向こう側に話し掛けた日々。
通信制高校のスクーリングで「友達ができた」と笑顔で報告された時は感極まって泣きじゃくった。
そんな過去を持つ息子も、趣味が高じて今は劇場支配人を目指している。
更に、娘は生まれつき体が弱く、しょっちゅう熱を出し、その度、病院に連れて行き、殆ど成長せず大人になった。
か細い手足と小さなパーツが少女のままで、かつてクラスメイトに散々「太らなくて羨ましい」と皮肉られ、食べると腹を壊してしまう体質だとは敢えて言い返さないでリビングにて悔しさを爆発させる。
夫は未だに娘にはとびきり甘い。
家族で歩んだ道の全てが、ハッピーエンドに繋がれば良い。「お疲れさま」と自分を労って、明日もワタシの人生は続く。
記念日でもない夫との外出を、いずれエンドロールで流れる〈おまけ映像〉に加えよう。
「さっきの話、来週の土曜でよければ」
ダイニングテーブルに向かい合わせで座った夕食時にさりげなく切り出す。
「了解。色々と調べておくよ、温泉も行こう」
何とまあ、テレビを観つつ無表情でにんじんをぽりぽり噛んでいたところが、ワタシの返事でパアっと嬉しげな顔に変わって眩しかった。
18歳で〈普通免許〉を取り、無事故・無違反の継続、なんだかんだで6台目(恐らく)。
そうやって、最後の車で旅に出る。