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とある男と生涯の現像
デジタルカメラが流行りだと聞いたのはいつだったか。リビングルームの電話台、右下に引き出し、2段目が自分用の小さなスペースで子供たちからの手紙や古びたメモ帳、等が入っている。
大掃除の途中で掘り起こした黒いそれは、充電しなければ俺と喋りたくないらしかった。
さながら思春期の娘である(とはいえ、うちの子は「お父さんと洗濯物を一緒にしないで!」と叫んでも後々、あっさり会話したが)。
バッテリーを抜き取り、充電するのにもまた一苦労、あれでもないこれでもないが始まり、整理整頓という本来の目的を忘れるなーー妻に叱られる羽目となった。
トレンディドラマの如くロマンスを経て結ばれた彼女にまで〈お父さん〉と呼ばれて久しく、名前を失った男は今年で定年退職を迎える。
希望と期待に満ちた18歳の美しい春とは打って変わって、どうにも泥臭く湿っぽい人生の分岐点が、間近に迫っていた。
無事にデジタルカメラの電源が入ると、真っ先に昔の家族が出てきて、涙腺を刺激される。
今と同じ部屋で中学校の制服、ジャージをそれぞれ着たふたりの息子がふざけ合い、顔面をくしゃくしゃにし、妻と小学生の娘がつられて笑う、ありふれた瞬間を俺が切り取ったものだ。
次に旅行の写真。助手席にて眠りこける〈お母さん〉、サービスエリアのアイスクリーム、朝陽を浴びた海、温泉宿の舟盛り、浴衣姿で寝そべる子供たちの手足は長く伸びており、成長を感じた。
最後は我が家のアイドルがやってきた日で、つまりは現在、隣で寛ぐポメラニアンが画面いっぱいに映る。
ホイップクリーム並みのふわふわ具合が何とも微笑ましく、目尻が下がった。
いつだって俺は撮影係で、四角い枠のどこにも居ない。やがて携帯電話のカメラがメインになり、メッセージアプリの普及に伴って不慣れなスマートフォンに変えた際には画質の良さに驚き、こそこそ写真共有アプリで仲間といいねを押し合う。
休日に菓子を作ったり、ガーデニングを楽しむ〈ゴロ〉が60代男性とはよもや思うまい。
未だに俺のような趣味を持つ人間は肩身が狭く「奥さんのお手伝いですか?」「すごーい」などと言われがちだが、少なくともインターネットの世界では生きやすくなる。
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ここで睡魔に襲われ、デジタルカメラの電源を切ってソファに体を預けた。
「もう、ガキじゃねぇから知ってんだ。親父が毎晩遊び歩いてるっつーこと」
下町の団地、薄い壁には穴があき、カーペットも常夜灯もなし、襖の向こう側に、高校生の俺と、当時にしてはまだ珍しかったキャリアウーマン風のお袋が座っている。
新聞配達のアルバイトをしていた自分と、夜遅くまで働くお袋、即ち実の母親はすれ違いの生活を送り、確かこの時は、約1週間ぶりに顔を合わせた。
夢で少年の俺を見るのは初めてでなく、言ってみれば時代劇の再放送なので、ただただ台詞を待つ。
「あぁ、そう。だから何だい、別れろって?」
乾いた笑いに加えて、わざとらしく煎餅をかじる音が聞こえる。フラフラしてばかりで、定職に就かない親父のせいで兄と母は働き詰め、幼い弟に寂しい思いをさせた。
俺が伝えたい言葉は「恥ずかしくないのか」に尽きる。
しかし、両親は少しも変わろうと努力せず、俺が就職してどうにかこうにか弟を大学に行かせた。
反面教師としてギャンブル或いは酒たばこを嫌い、友人曰く「几帳面すぎて面白みがない」男が誕生する。
そんな訳であの頃は親父が敵のような存在であったが、年を取るうちに実家を無くし、ぶち当たったのはお袋が抱いていた厄介な愛情(やれやれ)。
運良く社内で妻と巡り会い、30代で建てた家のために、皆の笑顔が見たくて、自らの苦労を子供に味わせてたまるものかと踏ん張り、バカ真面目なくらい仕事に励んだ自分と、形は違えど何かが重なった。
「お父さん。ねぇ、お父さんてば」
(んっ?)
ウィスパーボイスのような、耳がくすぐったい声で目覚める。
かつてはしょっちゅうソファで昼寝してしまい、娘に起こされるも、彼女が実家を出てからは妻に放っておかれて時たま、風邪を引く。
(おまけに夕方以降は歌手だかアイドルだかのファンミーティングに参加、食事も済ませてくるとかで……まさかな)
薄目を開けると、ポメラニアンのメレンゲが真ん丸い瞳でキラキラとこちらを見つめていた。
「お散歩行こう!」
掛けっぱなしの老眼鏡がずり落ちる(まあ、余生にこんな奇跡も悪くはない)。
いつもの公園よりちょっぴり離れた場所まで行き、デジタルカメラでメレンゲの写真をありったけ撮ったけれど、モデル宜しくポーズを決めてくれて、人前だと「ワン」としか鳴かなかった。
何と賢いことか。
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そうそう。
長男の妻が妊娠中で、じきに初孫が産まれ、今度は〈おじいちゃん〉の物語に切り替わる、予定。
★そこのお父さんに向けたフィクションでした。
あけましておめでとうございます。
今年の目標は執筆速度を上げること、よろしくお願いします!