見出し画像

あたらしいくらしはどうですか


「ところで瀬名さま、猫はお好きですか?」
引っ越しを考えており、真冬に数軒ほどまわった辺りで〈不動産会社の男〉桐生が切り出した。
 時刻は午後4時を過ぎ、徐々に町の景色がブルーグレーに移り変わる。


 正月休みが明けた頃から、ちまちまと場所を変えて探してはいるが、本日も物件に恵まれず、内見を終わらせて帰る前に雑談か。
 不動産会社の無機質な車に乗り込むなり問われ、は苦笑いを浮かべながら答えた。

「ええ、ずっと昔に欲しがったんですけど。余裕がないとかで親に反対されて、泣く泣くゲームで育ててましたね、懐かしいなぁ」


 常日頃とは別人のようにするする言葉が出てきて、ルームミラーで後部座席を確認した桐生と視線が絡まり、ぱあっと白い歯を見せられる。


 彼はまだ気付いていないようだが、僕らは同じ小中学校に通っていた。現在はパリッとスーツを着こなしていても、どこか笑顔に面影があり、逆にこちらは忘れ去られたと思われる。
 少年時代、ドッジボールに明け暮れたことなど、あちらにしては取るに足らなかった。


 窓外の庭や植え込みをボーっと眺めつつ、シートベルトを締めると緩やかに発車し、桐生は「でしたら、最後にもう一軒いかがでしょう」と言う。


 条件はこうだ。
 (ギリギリ)都内、駅まで徒歩3分、2階、1LDK、ユニットバス、築浅のデザイナーズマンション、とやら。
 肝心の家賃は相場と比べずともかなり低く、嫌な予感がボールの如く僕に狙いを定める。


「霊感がなくたって、事故物件はちょっと。困りますよ」
 桐生お前ふざけんなよ、と僕の中に潜む少年が早口で捲し立てた。それを強引に押さえつけ、どうにか大人らしく振る舞う。セーフ。


 車内ではごく小さな音でラジオが流れ、よりによって今、笑いの効果音が入り、信号待ちににつき妙な間が空く(何なんだ、この状況は)。


「恐らくそうではございません。但し、長くお住まいになった方がいらっしゃらないのです。私からすると可憐な存在にも拘らず、『不気味』とのお声をいただいております」

 放たれた〈存在〉という単語が引っ掛かってぶわ、と鳥肌が立つ。
 やはり何かが棲んでおり、その上こいつは僕が同級生と知ってか知らずか、澄まし顔で懇切丁寧ぶって「敷金・礼金なし」「日当たり良好」「味わい深いコンセプト」等々、さりげなく、しかし確実に薦めてくる。

 
と、ここで冒頭の質問を思い出し、合点がいった。半透明の猫と暮らすイメージが脳内に広がるも、人型でなければ幾分か恐怖が薄れる。
「行ってみたい、かも」
 そして〈内見疲れ〉のため(連日いい加減にしろ)、呼吸と同時に口から吐き出された。
 

 これではあちらの思う壺である。
 せめて酒の席においての話題作りになることを願って、やけに長い長い、長ったらしい坂を下った。

「……何の異常もありませんね……」
万々歳だろう、どうして残念がる?
 重たい扉の内側に封印されし化け物との対峙を大いに期待した自分が浅ましく思える程に、チョコレート色の温もりに包まれた部屋は平和だった。


 住民がころころ入れ替わるからか、床なぞ仮に舐めたらまろやかな甘さが舌を通り過ぎるような艶で、壁はビスケットの手触り、間取りも完璧かつ健全、寧ろ落ち着き払った雰囲気で、恐ろしい要素はちっとも見当たらない。


 親戚におちょくられ、空のお年玉袋を貰った時のような気持ち。
 桐生にしてやられた、アウト。


 されど、ユニットバスの浴槽側にあたる壁が、一部タイルで出来ており、そこに問題があった。
「は、シール? にしちゃ、でかいな」
 個性的な花の模様を覆う形で、にこやかな表情の猫に加えてピアノらしき楽器の巨大なステッカーが貼られている。
 

「こんばんは」
「ぎゃあ!!」
 触れた瞬間、猫に挨拶されてのけ反った僕の両脇を桐生ががっちり支えた(『慣れています』のおかげで尻餅をつかずに済んだ)。


「かかか、帰ろうっ、今すぐ。きりゅ、う、くん!」
 子供みたいな情けない声を上げ、へっぴり腰で桐生の後ろに隠れる。
「君、面白ーい。気に入ったよぉ」
 わざと喋ってみて、にっこりしながらこちらの反応を楽しむようなあいつが自分にはとても可憐とは思えなかった。


 易々と剥がせぬ羞恥の至り、想定外な旧友との再会、あれからの僕は。

「ただいま」
「おかえりなさい」
 物件探しをやめ、結局は家賃に負けて〈最初の住人〉が貼り付けたと聞く、ステッカーの猫とぬくぬく同居している。


 なお、一人暮らしの日常に彩りを添えられて愛着が湧き、満更でもない。

「ほーら、予想が『当たった』」