「失いたくない」が愛を物語る(後編)
なかなか取りに来ないので、交換日記が6ページも埋まった(個人のノートと大差ない)。
職場の休憩室にテレビがあり、例のピグミーマーモセットが無事に捕獲されたとのニュースを見る。当然ながら野生ではなく。
大勢に愛でられて、随分とポエティックな名前がついたあれと正反対な彼に、どこか通ずるところを感じ、到頭おしまいだと私は覚悟を決めた。
『すまん、またシソを摘み食いしちまった。アマナツが作るもんは全部うまい。好きだ』
昼食の梅おにぎりによってヘビイチゴの文と乱雑な字を思い出し、涙が滲む。
会いたい時に限ってひとりで、想いが募る。
早く飽きて欲しかった筈が、去られるには時すでに遅しで、耐え難い。
「あの子、おかしくない?」
帰路にて、通りすがりの者が放った「おかしい」にひどく怯える。
一軒家の庭、手持ち花火で浮かれて大人を笑わせるような子供に向けられたもので、悪意はなさそうなだけにダブルパンチを食らった。
ときに『アマナツは俺と同類、一目で分かった』とは。
考えを巡らせ、やはり〈開かずの間〉を何とかしなくてはヘビイチゴとの仲は変えられないとの結論に至り、ふくれ織りの座布団を敷いて、交換日記に私の過去をしたためる。
めちゃくちゃに書き連ね、読み返して、破った。
焦燥感が拭えず、文末の小恥ずかしさにぽっと頬を染め、エアコンの風に当たる。
ややもすると誰かが悪者になりがちで、限界を迎えたのは事実、だがしかし、母のみならず友人にも伏せた内容だった。
吐き出して楽に? 後悔を減らす??
ヘビイチゴが悩んでいるならば、全力で支える。そして、今度はふたりで前に進む。
「ったく。呼び鈴に応えねえで、すやすや眠ってやがる。おまけに口酸っぱく言った戸締まりも。妙だと思ったら」
切れ端をひょいと拾い、部屋の照明を消し、鉢植えの朝顔に鍵を預け、住処に戻った。
夜明け烏が鳴き、いつの間にかノートに記されたメッセージは『寂しくさせた、しかし一生の別れかよ。土曜は丘の上で夕涼みしようや。アマナツがこっちに踏み込んできたって都合よく解釈して、じゃあ俺も喋る』で、飛び跳ねる。どきん。
『そもそも人に言葉がなきゃ傷付かずに済む、でもさ、あるから癒えるんだよな』
渇いた喉を潤すように〈彼〉が染み渡った。
約束こそ曖昧だったが、我が家を含めたのどかな風景を望める、一本桜が象徴的な丘の木にヘビイチゴが寄り掛かり「よっ」と軽い挨拶、ハットを深く被って柄シャツ(それも商店街の洋品店で売られているような)、細身のボトムスにラフなスニーカーを見て、我にもなく駆け寄る。
斜面の所々に健気なシロツメクサらしき白が生え、アニメのシーンさながら、夏の思い出を詰め合わせたような田園風景と家々に灯る光のコントラスト、肩を並べて夕暮れ時に座り、持参の缶ビールを飲みつつ楽しんだ。
「こないだは満月を眺めてた。ふいとアマナツの顔が浮かんで。景色とか、毎日の出来事、なんもかも書きたくなって、心ん中に溜まってく。勿体ぶるってか、死神が好かれたら、そら奇跡だわな。化けの皮が剥がれて、単純に幻滅されるのが怖かった。くだらんプライド」
彼はふーっと息を吐いて「笑ってもらえて、ちと気持ちが救われた」と続ける。私は無自覚で表情を和らげていた。
「同じ。おいしいクッキー、猛烈な雨と引き換えに虹、新しく買ったエプロン。幸せは共有したいよね。逆に、やらかして〈始末書行き〉、シャンプーを忘れた、久しぶりに口紅を塗って、ちょっと似合ってないのも」
共感を持って頷き、舌が回る。
「どれ。疎いんで気付かなかった」
急に距離を縮められ、真っ赤な顔を隠す缶ビールの飲み口に夕陽の色がうっすらついた、ほろ酔いの私は、柄シャツのボタンを1つ外すつもりが手こずる不器用なヘビイチゴのことを、狂おしい程に愛している。
ともあれ、表には出さないよう努めて、ゆっくり彼の話に耳を傾けた。
「アマナツと初めて会った日は葬儀の帰り。俺は天涯孤独で、ベーカリーは親代わりの人がやってた。家族も友達も女も、俺の大事なやつらはみんな居なくなる。何らかの事情で別れるか、自分は助かって。しかも人間に限らず、物がしょっちゅう消えて、勤務先は毎回潰れんの。『お前のせい』『なんで生き延びてんだよ』何百回も浴びせられた。死神は不名誉なあだ名。かと言って、傷の舐め合いで付き合えば生い立ちの不幸自慢だらけ。幾ら何でも、世界中の絶望を背負った感じはしんどいだろ。とどのつまり、もう深い関わりは要らなかったんだわ。いっそ記憶が吹っ飛べば。装って俺じゃなくなりゃいい、したら、必要以上に首を突っ込む輩が失せて、悲しみと苦しさから逃れられる。現実は厳しいがな、演じると却ってややこしく、こんな風に」
神妙な面持ちで顎髭を触り、テンポの速い長台詞を全く噛まずによくもまあ。
次に、眼差しがこちらに向く。
「てな訳で。今のうちに、わざと離れて、元通りにしようと。ちょっくら殻に籠ってみた。アマナツを失いたくない、酷い目に遭わせるかもーーおっと!」
勢い余って抱きつき、ヘビイチゴが木の幹にごつんと頭をぶつけ、私は腕に力を込める。
何よりも愛の告白に聞こえた。
「お互い抱えてるものがあったんだね。臆病もやむなし、自分を責めては『たられば』に襲われる感じ。で。考えようによってはヘビイチゴは最強だよ。だって、生命力は勿論のこと、ひとりで乗り越えてきたんでしょう、こっからはふたりで半分こ。あと、どの道、全員に死が待つ。私は恋に落ちた。あなたは?」
問い掛けると同時に彼の心臓が早鐘を打った。
暫しの葛藤、指を組んで。
月の光に照らされ、開かずの間を解く。
「理屈抜きで惹かれて、どうしても放っとけなかった。『どこにも行かないで』は俺の台詞」
囚われを跳ね返す強力な、且つ最も甘やかな呪文を唱えた後に、絡み合う視線で確かめ、唇を塞がれる。
失った人や物などは二度と取り戻せない恐れがある、とはいえ、私たちは得た。
〈なくすばかりではなく、みつける〉。
どうか、そちらにも意識を傾けて。
さて。喜びに浸り、丘を下るタイミングでサンダルが壊れて、彼の大きなサイズのスニーカーを借りる(自分は裸足でも結構だけれど)。
人間として、即ち本当の住所、職業、年齢、等々、未知の世界が広がり、少なくも土日では語り尽くせないだろう。
「よちよち歩きか。おんぶしてやんのに」
「え、やだ」
「……」
ヘビイチゴがやや屈んで、私の耳元で囁いた。本名は、ふたりのくすぐったい秘密。