心に育つ苦しみの理由
春分が過ぎた朝。
妙に長くて生々しい夢を見た。
私の恐怖を集めてグッと凝縮したような夢。
そして、まだ真っ暗な時間に目覚める。
頭の中は冴え冴えとしている。
覚醒した。
そんな気分。
冴えた頭を自覚しながら、そのまま布団に横たわっていると、私が体験してきたこの世界の仕組みを理解していることに気がついた。
夢の影響だろうか。
私が見せられたのは、自分が生きてきた半生で、何を思い込まされているのかに気がつくような内容だった。
窓の外が、微かに明るくなってきた。
この世界に生まれてきて、まだ小さな赤ちゃんだった時から、人は親や周りの人を手本に、なんとかこの世界に馴染もうとする。
その過程で、周りの人から色々なものを言葉や態度で手渡される。
祝福や愛情だけではなく、恐怖も沢山手渡される。
赤ちゃんは、どれを受け取るかを決められる。
そして、うっかり愛情や常識というおくるみに包まれた恐怖を受け取ってしまうのだ。
立派な人はこうあるべき。
そんなもの、本当はないのに、偏った価値観を渡され、それが連鎖していく。
自己犠牲や滅私奉公の精神がまるで崇高なもののように思う人も多いが、それは洗脳装置であるテレビや学校という奴隷育成の場で叩き込まれたものに過ぎない。
と、書くとギョッとされるかもしれないけれど。
例えば、立派な人物像とされる人に皆がなるとして、皆が自己犠牲をしていたら人類は全滅である。
皆が滅私奉公するとしたら、その先は?
皆が自己犠牲をしているときに、生き残る人がいたらそれはどんな人?
皆が滅私奉公するとして、では奉公先はどこ?
どちらも、立派な行いを しない 存在が生き残り得をする。
ということに、人はあまり気づかない。
これが、この世界のからくりだった。
もしも皆が目指す方向があるとしたら、そこを目指さない人の方が得をする。
これと似たようなことはないだろうか。
何故、自己犠牲や滅私奉公が尊いものとされているのか。
不思議に思ったときに初めて、解放される苦しさもある。