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退職して8カ月経った今思うこと

 2022年の10月から休職し、一年後の2023年10月頃に退職を決意。12月末に約6年の教員生活に終止符を打った。結論から書くと、今はこれまでで一番穏やかで、幸せな日々を過ごしている。

 教員を目指したのは、中学校3年生の時の担任の先生がきっかけだった。小学生の時からお菓子作りが好きで、中学を卒業したら専門学校に行って、パティシエになることを夢見ていた。でも、実際に中学卒業後の進路を考え始めた時に、担任の先生から「本当に好きなことは仕事にせず、趣味のままのほうがいい」というようなことを言われた。私は素直にそれもそうだな、と納得した。それと同時に「あなたは善悪の判断がきちんとできるから、教員に向いていると思う」とも言われた。これまた素直な私はその気になった。小学校高学年の時の担任の先生も、個人面談で私の母に「この子は先生になるかもしれない」と言っていたらしい、ということも思い出した。小学校高学年から成績が伸び、中学校ではオール5で勉強は得意だった。友達に教えることも好きだったので、地元の進学校を志望すると同時に、高校卒業後は教育大に行って先生になろう、と決めた。

 高校3年間はほとんどの時間を勉強に費やした。教育大に行くという目標をもって、勉強に集中すると決めていたので、部活にも入らなかった。1年生の時から平日でも4時間は勉強した。自主的に、というよりも、それぐらいの時間を費やさないと、予習や小テストの勉強が終わらなかっただけなのだけど、、、その甲斐あって、成績は常に学年で一桁代をキープし、模試でも志望している教育大の判定はほぼAだった。テストの点数や偏差値などの数字にとらわれて、荒んだ心を持つ高校生になってしまっていたが、あの日々を勉強に費やしたことに後悔は今でもない。
 ちなみに英語の先生になると決めたのは、高校1年生の時だった。正直、国語のほうが得意だったのだけど、教え方の想像がつかなかったので、二番目に得意だった英語にした。学年が上がっても、国語のほうが得意なことは変わらなかったが、素直でまっすぐな私はそれ以降考えなおすことなく、英語の先生になった。

 初志貫徹、有言実行で志望していた教育大に無事合格、入学した。大学にはいろいろな人がいて、心境や価値観の変化があった。高校生活で尖りに尖りまくった心は、大学生活を通して丸くなったように思う。今でも不真面目な人は苦手なのだが、その人にはその人なりの価値観や考え方があって行動しているということがわかったので、自分の価値観に一方的に当てはめて、人を判断してはいけないのだと考えるようになった。これが、大学生活で得た、一番大きな学びだ。
 教育大では、先生になってほしくないのかな?と思うぐらい、現実は厳しいよ、ということを1年生の時から教えられた。何度も本当に教員になるかどうか迷った。
 大学入学と同時に、塾でアルバイトも始めた。その中で、英語の文法を教えることが楽しいと感じ、高校の英語の先生になることを決めた。塾のアルバイトは本当に楽しかった。頑張れば頑張るほど、成果が目に見えて分かった。塾生にも人気で、誕生日に手紙をもらったり、塾を卒業しても会いに来てくれたり、嬉しいことがたくさんあった。やっぱり教えるのは楽しいなと思ったし、塾での経験は、先生になりたいという思いを強くした。
 4年生で教員採用試験に落ちた時は、教員になることを諦めようかと思った。きっと就職活動をする人なら何度も経験するのだろうけれど、採用試験に落ちるというのは、これまでの自分の努力を否定されたように感じるし、自分は教員に向いていないのではないかと思わされた。幸い、大学院の進学を決めていたので、その間に気持ちを立て直し、翌年の採用試験には通ったのだけど。どうやって気持ちを立て直したんだったかは覚えていない。

 大学院時代が一番充実していたのだけど、蛇足になるので省略する。

 晴れて教諭となり、同時に、生まれて初めて実家を離れて一人暮らしも始めた。4月は本当にきつかった。最初の一週間は毎日泣いて帰った。初めてのことばかりで先が読めず、毎日毎日不安だった。それでも、1年目に辞めたいと思ったことはなかった。9月頃にもしんどい時期はあったが、周りの先生のサポートもあり、何とか乗り切った。
 正直、授業力はもちろん、英語力も他の先生に劣っていたと思うが、事務的な仕事はそれなりにできたので、周りの先生からの評価は悪くなかったと思う。それもあってか、2年目は担任を任された。これが運命の分かれ目だったな、と今となっては思う。
 担任1年目は、いくつか問題はあったものの、なんとか丸く収まっていた。問題は担任2年目。いろいろなことが起こりすぎた。ここには書けない、本当にたくさんのことがあった。

 周りの先生には恵まれていたし、慕ってくれる生徒もたくさんいたのだけど、ダメだった。

帰宅してから一歩も動けず、そのままベッドに潜ることが増えた。
わんわん泣くこともあった。
通勤後、車からなかなか降りられなくなった。
教室に入れなくなった。

 そうなって初めて、周りの先生に、担任をやめたいことを相談できた。そこからはすぐに管理職と話ができて、次年度は担任を外れることになった。心は限界だったが、なんとか休むことなく、その年度は周りの先生のサポートで乗り切った。今でもその時助けてくれた先生方に感謝している。一生忘れないと思う。夫にも感謝している。夫がいなくて、一人暮らしだったら、きっともっと早い段階でダメになっていたと思う。

 担任を外れた教員4年目は、通院しながらも、怯えることなく、のびのびと仕事をしていた。5年目は、自ら教育実習生の指導教員になるなど、とても張り切って仕事をしていた。でも、夏休み明けから突然、仕事中に何もないのに涙が出そうになることが増えた。仲良くしていた先生がしばらく休職されることになったことも、引き金になったかもしれない。

ある日、ベッドから起き上がれなくなった。
ベッドから起き上がれても、支度ができなくなった。
車での通勤中、ずっと涙が止まらなかった。
学校に行けなくなった。

 電話して休むことになると少し心が楽になった。でも、翌日になるとまた同じことの繰り返し。自習でやってもらう内容を伝えることもしんどくなっていた。学校に行きたくなくて、休みたくて、病院に行った。元気になったと思っていたので通院を中断していたのだが、幸いすぐに予約が取れた。診断書をもらって休むことになった。最初は一カ月のつもりだったが、それが三カ月になり、半年になり、、、だんだん戻ることが怖くなった。体調もジェットコースターのように波があった。

 自分の頭には、担任していた時にしんどかった時のことが思い出されていた。あの時でさえ、休まずに行けたのに、なんで今自分は行けないのだろう。あの時休まなければ行けたかもしれない。どうして休んでしまったのだろう。あの時は乗り越えられたのに、今回は何もしんどいことはなかったのに、どうして行けなくなってしまったのだろう。自問自答の日々が続いた。このまま辞めるか、復帰するか、何度も何度も考えた。夫にしか言えなかったが、生きることがしんどくなって、死にたいと思うこともあった。駅のホームで、このまま飛び込んだら楽になれるだろうか、と考えたことも一度や二度ではない。電車がホームに入ってくるたびに目をつぶって、その考えをかき消していた。診断は適応障害だったが、休職が長引くにつれて鬱っぽくなっていたのだと思う。

 死を選ばずに、生きることを選べたのは、甥っ子の存在が大きい。ちょうど休職する直前に生まれた新しい命は尊く、温かく、優しかった。
甥っ子、夫、母、妹、弟、祖母。
家族を悲しませたくないから、生きようと思った。
この状態から抜け出さないと、と思った。

 最後まで迷ったけれど、辞めることを決意した。きっと、休職し始めた時から、心の奥底では決めていたのだと思う。でも、ずっとずっと頑張ってきたことが台無しになってしまうようで、なかなか決断できなかった。「辞めていいよ」と言ってくれた夫に感謝している。

 辞めると決めてからは、これまでしんどかったことが嘘のようにどんどん体調がよくなっていった。退職の翌月、1月からは通院も服薬も辞めた。2月末には、夫の勧めもあって、実家近くに引っ越しをして、地元に戻ってきた。冒頭にも書いたが、今はこれまでで一番穏やかで、幸せに過ごせている。

 夫の帰りを待ちながら、自分と自分の大切な人たちのことだけを考えて過ごせる日々。毎朝ウォーキングをしながら、清々しい朝の空気を吸い、なんて幸せなんだろう、と思う。

 学生時代頑張ったことは、確かに無駄になってしまったのかもしれない。奨学金返済はまだまだ残っているし、教員免許も、もう使うかどうかわからない。
 でも、今、私は幸せを実感している。それでいいじゃないか、と思う。