選ばなかった道に想いを馳せる。
「今日自分がした仕事が、明日形になって世界へ羽ばたいていく。こんな仕事は新聞記者以外にはない。だからこの仕事を続けてる。」
某全国紙の記者職インターンシップの懇親会の席でベテランの新聞記者の方が話した言葉を今もずっと覚えている。
小さな頃から新聞記者になりたいとぼんやり憧れていた。
怒られてばっかりだった小学生時代、
唯一褒められるのが作文の授業の時で、
その時だけは小さな教室の中で自分が王様になれたような気がして嬉しかった。
家に帰って褒められた作文を両親に渡すと、みんな嬉しそうに読んでくれて褒めてくれて。
目を細めた祖母が私の作文を読みながら
「文章が上手ね。そんなに好きなら、
将来は新聞記者になればいいのに」
と言った。
新聞記者って何?
その仕事すら知らなかった私は、大急ぎで母に
「おばあちゃんが私は新聞記者になればいいって言ったんだけど、新聞記者って何?」
というと、突然の私の質問に、
「またおばあちゃんは適当なこと言って…」
と言いながらも、夕方の台所の水仕事の手を止めてポストから夕刊を取ってきて、私の目の前に広げてくれた。
「たくさん文章が書いてあるけど、これを書く仕事よ。いろんな困ってる人にお話を聞いて、いろんな事件をこの新聞に書くために記事にするの」
それは青天の霹靂だった。
そうか、この世の中に学校の先生と銀行の銀行員さんと郵便局の配達さんとスーパーの店員さんとお医者さんと薬剤師さん以外の仕事があるなんて。
それも、文章を書くことが仕事になるなんて!
仕事から帰ってきた父親に、新聞記者になろうと思う、と報告すると
「おー、あぶなか仕事ばってん、大事な仕事ばい。ペンは剣よりも強しって言葉もあるけんね。」
「ペンは剣よりも強し?」
「うんうん。偉か先生の言葉たい。
書いた言葉が新聞とかニュースに載って世界の人が読んで、こりゃどぎゃんかせにゃいかんばいって思ったら、大きな力になる。
剣は目の前の人を殺すことしかできんけど、
ペンは世界を変えられるけん、ペンの方が剣より強かって意味たい」
「へええ…」
その日から新聞記者のことばかり調べて、
だけど、それはなるのがすごく難しくて。
すごくいい大学のいい学部を出てそれから、すごく難しい入社試験を合格しないとなれないということを知った。
それから、高校生になると作文の授業もなくなって、作文なんかより偏差値や模試の結果がものを言う世界で。
「この九州の田舎で文系の大学なんて行ったって仕事なんてない。つぶしがきかん」
という教師や大人たちの言葉に流されて、理系クラスに進学して父と同じ医師を目指すように流されて行った。
自分が文章が上手い、なんて自信は無くした。
そんなものに意味はないと思った。
理系の才能なんてない私は成績は底辺を彷徨い、浪人生活が決まったその日に、ぼんやりと自分の人生を思った。
このまま理系で浪人したって、成績なんて上がるわけない。元々向いてなかったんだから。
そして、文転して1年間大好きな日本史や現代文や古文、英語の勉強も頑張って。
大学入試の結果はほろ苦かったけど、京都の某大学に進学した。
京都での学生生活にも慣れてきたその頃、
ひょんなことから京都新聞で記事を書く機会をもらった。
その頃京都新聞では、京都の大学生に誌面を書かせると言ういかにも京都の学生に優しい街を反映させたかのようなありがたい企画をやっていて、私はそれを任されるチャンスを得たのである。
大学内で地域社会と一緒に人知れず懸命に取り組むある団体に目をつけて、取材を申し込み、取材してその団体に心動かされ一気に書き上げた記事を京都新聞の記者の人に送る送信ボタンを押すときは体が震えた。
こんなんで大丈夫だったかな??
そう思いながら返信が来るまで夜も眠れなかったけど、返ってきた返信は、
「すごくいいです。少しだけ新聞に合わせるために文体を整えましたがこれで行こうと思います!」
という旨の返信が来て、あまりの順調さに拍子抜けしてしまった。
誌面は好評だったらしく、取材した団体にも問い合わせが殺到して、同じ大学の団体に所属していた人たちからは感謝に感謝を重ねられて恐縮してしまった。
そして私の心にとどめを刺したのは、
「またこの企画続けて、蒼子さんがやりませんか?」
というものだった。
嬉しかった。
震えるほどに嬉しかった。
憧れた、新聞記者の人から自分の文章が少しだけ認められた気がした。
そしてむくむくと新聞記者へのあの日の憧れが鮮やかに甦った。
その企画は断ってしまった。
当時私は中国への渡航を控えていて、1年間大学を休学して中国に滞在する予定だったからだ。
中国にいる間も、大学を卒業した後何をしようと考える中で新聞記者が頭によぎらない日はなかった。
中国の様々な場所に行って、様々な人と話して関わって、いろんなことを感じて、考えて。
帰国したら新聞記者になろうと決めた。
学歴とか、そういうの全部一回ゼロにしてこの文章力と自分だけ持って行ってどこまでいけるか試してみよう。
そうしないと絶対に後悔すると思ったから。
帰国した途端にマスコミ講座に申し込み、猛勉強して全国紙、ブロック紙、地方紙と受けて行った。
ダメだったところもあったし、内定寸前のところもあったけど。
友達に付き合って、聞きに行ったどう考えても私には入れないような華やかで、大きな製薬会社の説明会に来ていた国際部の人の話に地面に頭を叩きつけられたような気分になった。
中国事業を担当しているというその人は、
中国での華やかなビジネスの写真や倉庫や工場の写真全部を写したパワーポイントの前で熱く中国ビジネスについて雄弁に語った。
どうして。
どうしてこの場所に、こんな人連れてきたの。
国際部なら英語とか、ヨーロッパとかインドとかでしょフツーに。
なんで中国?
それでも説明会が終わった後フラフラと壇上にいたその社員に、寄って行って自分がたった1ヶ月前に中国から帰ってきたこと、もしもその会社に入ったら中国関連の仕事をできる可能性はあるのか?と無謀な質問をぶつけた。
その人は、しれっとなんてことないみたいに。
「うちにきたら。うちにきてうちの中国ビジネスやれたら、今やってきた留学なんかよりも何倍もカオスで苦しくて大変だけど、どこよりも本気で真剣に中国と向き合えることは間違いないね」
と、言い放った。
このまま。
このまま、思うままに新聞記者に。
もう少しで最終面接なのに。
私は結局それを放り出してその日話を聞きに行った製薬会社にエントリーシートを叩きつけ、一次面接へ繰り出した。
そして今働いている。
今、その会社の国際部であの日私に話してくれた先輩の隣で仕事をしている。
結局根っからのビジネスマンには慣れなくて、
文庫本や映画を見ることだけを楽しみに日々を送る中で、先日こんな本を買った。
読売新聞社会部取材班による、
ルポ海外「臓器売買」の闇
あることをきっかけに元々臓器売買を専門に追いかけてきたわけではない記者たちが、力を合わせて己の目と経験を武器に体一つ現地に乗り込んで真実の尻尾を追いかけ回すその姿を、文字列を通して目で追いながらキュルキュルと心臓を握りつぶされる思いだった。
ああ、これは私がなりたかった姿。
世界を舞台に、真実を追いかけ、突き止めて書いて書いて書いて。
己の信念を信じて、記者でありながらもサラリーマンであることをうまく渡りながら、綱渡りのような難しい道を駆け抜けていく道に落ちてるヒントを拾い集めてかき集めて。
そして、彼らは真実に辿り着き臓器売買の真相を暴いた。
私が途中退場どころか、門を潜る前に辞めた道の果てにはこんな世界があったのか。
私はあの時、
手をかけていた新聞記者への門戸から寸前で手を離してしまった。
上海のギラギラとした摩天楼や、北京の喧騒、広東省の活気あふれる空気感にどうしても未練があった。
真剣にもっと中国に向き合いたい、という気の迷いのようなものに流されて。
今私は出張先の上海のホテルでこれを書いている。
正解なんてない。
正解なんてない人生の中で、いろんなタイミングや気の迷いを重ねて人は人生に流されていくしかない。
結局、人生をコントロールすることなんでできなくて。
まるで波乗りのようにうまく乗りこなすことができれば100点どころか120点、いや180点かも知れないのが人のさだめ。
だけど、私に後悔はない。
選んだ道をいくしかない。
だけど、今日みたいに選ばなかった道の先にある激烈な輝きや、結果を見ると少し揺らぐ。
だから、背筋を伸ばして拍手を送らなくちゃいけない。
中国に救われて、中国に魅せられて、中国に道を踏み外させられて、中国に苦しめられて。
だけど、きっと私の選んだ道の先にもいつかきっと激烈な輝きを得られる瞬間は訪れることを信じて前に進む若さがまだ自分に残ってると信じたい。
99%不幸でいいの、激烈な1%のために生きるのよ。
選んだものは仕方がない。
頑張ってやり切っていくしかない。
そう自分に言い聞かせながら見上げる上海の空はどこまでも青く。
私は本を閉じてこれから、帰国して報告書類をまとめるのである。