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ボヘミアン・ラプソディ超訳〜毒親編〜

2/11は、私のクイーン記念日なので、遅れましたが、ボラプの超訳を載せました。

2年前に映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見たことがきっかけで、クイーン・ファンになりました。

いろいろな出会いに感謝します。


BOHEMIAN rhapsody

というタイトルに秘密があると思いました。


訳詞


(むかしのはなしにさかのぼる)

ママ・ジャー、

ぼく、たったいま、一人のある男を、ころしたんだ、

いや、ほんとにころしたんじゃないよ、

こころの中で、いなかったことにしたんだ、

ぼくがじゅうのひき金をひき、

いま、「彼(かれ)」はしんでる・・・


ママ、「人生」は(あのとき:さつじんした、いまさっきまで)はじまったばかりだった

でもぼくは、いまや、「それ」をぜんぶすててしまったんだ(すてるところなんだ)


「ママ、なかせるつもりは(あのとき:さつがいじ)なかったんだ。

「もしぼくがこころの中で『男』をころしたこころのまま二どともどらなかったら、
いまこのときも、あしたも」(、どうする?)

「つづけてよ、つづけてよ、
まるで、ほんとのところは、なにも、気にすることはないかのように・・・。



(2ばん)

もうおそい・・

ぼくのじかん(いよいよしぬとき)がきた

(そのことをかんがえると)せすじがこおる

「体」は生きてるあいだずっといたいんだ


みんな、さよなら、

ぼくもういかなきゃ、

あなたたち、みんなをのこし、(ひとり)「真実(しんじつ)」にむきあわなきゃ、


ママ、

(どのむきにもかぜはふくもの・・・)

(やっぱり)しにたくないよ!

ときどき、ねがっていた

(あなたから)生まれてこなければよかった、と。


(げきじょうがスタート)

ぼくには「小さい男」のシルエット(かげ)が見える

「スカラムーシュさん、こわいおじさん(ムッシュ)、

ファンダンゴをうたっておどってみせてよ」

(男はおこってカミナリをおとす

カミナリがごろごろ、ぴかぴか!

ぼくをとってもこわがらせる!


(低音と高音の不気味な声:父と母の叱責・小言か)ガリレオ!フィガロ、

すばらしい!

オー!

でも(彼ら闘った哀しき偉人や鮮やかなヒーロー像およびその作家・巨匠と違って)ぼくはただのかわいそうなはんにんまえのにんげん、

だれもぼくをすきじゃない


(仲間たちの声か)

【彼はただの貧相なおとこの「子」

(心の容量が)貧困な家族からの

彼に「彼の人生」をひきはがし、取り戻せ、

「この」巨大な怪物のような運命からの。】


イージーな性格なんだ、

サッと現れ、サッと去るのがぼくのモットー、

Goさせてくれるよね?

ブルーサラー家


だめだ、私たちはおまえをgoさせない

彼をgoさせてあげて

ぼくをgoさせて

決してさせてくれない、オー!

ノー!×7


オー、ママ・ミーア(ぼくの:míaイタリア語)、

ぼくをgoさせて


Bの一族の怨念(代表パパB?)が、

一匹の手下の悪魔(ママ?パパ?)を取り置かせてる、

ぼく用に、

ぼくに、ぼくに!


(にぎやかなロックンロール)

 じゃあ、あなたは、ぼくに石をなげたり、目につばをかけてぶじょくしたりできるとおもうんだ

じゃあ、あなたは、ぼくをあいせるとおもいながら、しにそうになってるのを見ごろしにもできるともおもうんだ

オー、ベイビー!

そんなことできるの?

ただ、出なくちゃ、

ただ、ここからまさに出ていかなくては〜!

(にぎやかなバンドが去る)


(天ごくへのかいだん)

オー、そうだ、オー、そうだ!


なにもほんとは、もんだいじゃない

だれでもわかること

なにもほんとは、もんだいじゃない

ぼくには。

どのむきにもかぜはふくから。


(イントロにもどる)

これがぼくの「現実(げんじつ)」の人生・・・?

こわいゆめを見ているだけなの・・・?

でもわるいことがたびかさなり、

足もとからたおれ、

もう、この「現実」から逃避(とうひ)できない・・・


(こころの中のやさしいこえ)

目をあけなさい、こころの目をひらくのです

そらを見なさい、

そして、見きわめるのです


(そんな、このつらいときに、目をあけて、さらにもっと空を見あげろ、といわれてもつらいよ、どうせ、くもの上のようなすごい人たちとくらべたら)ぼくはただのかわいそうなはんにんまえにすぎない・・・

(おぉ、かわいそうな「子」・・・)

でも、まって、

かわいそうにっていうあわれみやおじひはいらないよ、

だって、ぼくは、

たまたまこのいえに生まれただけだし、

どう生きようと(いこうと)ぼくのかってでしよ?

大きく見れば、うまれものうりょくもかんきょうも、

よすぎも、わるすぎもしないじょうきょう。

どんなむきにもかぜはふくよね、

そんなの、ほんとには、どうでもいいはずさ、

ぼくには。

ぼくには、ほんとのところは、(こんないやなことたちも)とるにたらないことのはずなんだ・・・!


続く・・・



解説

毒親編です。

BOHEMIAN rhapsody

(ボヒーミアン・ラプソディ)

というタイトルに秘密があると思いました。

彼の父の名、それがhe(彼)に挟まれるのでは?


クイーンの曲ではタイトルは、フレディのソロ曲も含め、コーラスなどで連呼されます。したがって、これは異質なタイトルです。


映画ボヘミアンラプソディでは父との確執も描かれました。

そうしたことで映画がかなり共感的なものになりました。


夜遊びするミュージシャンの学生と、厳格な父といった風情ですが、実際はもっと深刻だと思います。

イタリア移民のダンスでの活躍を描くハリウッド映画「サタデー・ナイト・フィーバー(1977)」をデジャブさせますが。

イギリスは確かに移民は多いが、

イギリスに亡命しようと言ったのはフレディだという。

厳格な、世界でも一番古い宗教の一つともいうゾロアスター教徒、

ペルシャを太古のイスラム教に追い出され、インドに代々住んでいても、厳格さと純潔を守り続ける。


英語が得意で、堅い職業に就くことが、移民としての生き方なのかもしれない。

若きフレディは、

何があったのか、インドの寄宿舎を高校の途中で去ることになり、

現タンザニア(ザンジバル)の両親の元に帰り、

居場所がなかったのかも。

7つ下の妹とも心が通わなかったのかも(猫かわいがりしていたようだが)。


その頃、ザンジバル革命で、命の危険が?

高校生くらいのフレディは、イギリスに行くべきだと言ったらしい。


アート系の高校か専門学校にかよい、

その後イーリング・アートカレッジへ。

両親(母?)は会計士や弁護士・医師などになって欲しかったらしい。

利発だったと思う。期待したのだと思う。


イギリスというマイノリティとして生きなくてはならない中、アートを選んだ。

イギリスは今でも家賃が世界一高い場所の一つ、そこで召使いのいない狭い家で、母まで働かせてアート系を選ぶのは忍びないに違いない。自分がイギリス行きを言ったのだから。

しかも長男で、妹もまだ進学するし、

絶対成功するしかない。


才能はあるのに、芽が出ない。

時には死にたくもなったと思う。


変な格好で帰ってくる息子と母はよく口喧嘩していたという。


1969年に既に

「ママ、人を殺したよ」

というフレーズをピアノ弾き語りしてるのを目撃した人はいるので、

この概念はその時点であった。

1975年(29才)にボラプとして完成される前に。

つまり、プアー・ボーイは、本当に少年だった時の話かも。


フレディにとって、背負うものが大きすぎた。

ゾロアスター教徒、ブルーサラー(Bulsara)家。

男一人の長男なので、同じ宗教の女性と結婚し、孫もゾロアスター教徒であってほしい。のではないか?

同性愛を避けられなくなったと自覚し、メアリーと出会い、両親はメアリーの子供を期待するところまでは行った。


妹も呪縛から離れ、イギリス人的な人と結婚して、唯一の男の子の孫を愛おしそうに両親は見つめる(フレディの死後)。


呪縛(じゅばく:家庭の)はかなり解かれていた。


初期の作品「ライアー」(嘘つき、最初のタイトルはラバー)も、ファーザーやママが登場し、父性と母性の総攻撃みたいなものも感じる。

ファルーク(F)・ブルーサラー(B)という出生名は、

マザー・マーキュリー(MM)から、

フレディ・マーキュリーに改名された。

Freddie Mercuryも

Fはファザー、Mはマザー(ママ)の略かも。

もしくは、逆の、

Man, male(性sexが性), masculine(男性的マスキュリン)と

Female(性が性), feminine(フェミニン・女性的)

かも。


いずれも、両方持っているイメージ。

歴史的偉人も両方あると、「女性の品格」を書いた坂東眞理子氏は言う。

ナポレオンやシーザーなどは優しい母性を持ち合わせ、ナイチンゲールなどは母性のみならず、勇敢さや強靭さなど男性的なところもあったとか。

あとは「子ども」という存在も、両方の存在と言える。


姓(せい・苗字)をBからMに改名した。


あるいは、Bad Boyから、Mr. Bad Guy(Man)になったのか。


解説2

しかし、いくらフレディが個人的なことを詩に込めてもそれは響かないだろう。

共感性、共通性がなければ。


イギリスの同年代(移民の自分を受け入れてくれた仲間や友達)やその下のキッズたちや、世界的にも、

さらには50年後でも人々はこの問題で悩んでいる、悩むだろうと思ったのではないか?


母親や父親や父性や性的役割、家業など。


たかが親、

されど親。


文明が高度化したり、複雑化すると、

(そうとは実感がなくても)親の問題が深刻化するのかも。

(だって、貧乏子だくさんや一夫多妻制ではあまり父親からの圧力や母親になれというプレッシャーはないかもしれない)


それを、

何も関係ないよ
自分(キミ)にはね

と言ってくれるのかも。


もう死ぬ覚悟ができていたと思う。

クイーンの作詞1曲目からして、死を予言し、大体その通りになっている(「グレート・キング・ラット」)。

44才、信者に周りをひざまずかれてベッドでなくなる。

性病で。

ダーティーなオールド・メン(じじい)。

44才は年寄りではないとは思うが(働き盛りのお父さん世代)。


死んだ人生を、解決済みの心で、これからそれに苦しむであろう世代にエールを送る。まだ生まれていない子供たちにも。


そんな可能性もある曲だと思った。

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