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本を読みなよ #1 「ソングライン」ブルース・チャトウィン
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万物は言によって成った。言によらず成ったものは何一つなかった。
アボリジニ神話において、かつて”ドリームタイム”と呼ばれた時代に大陸を旅した精霊”トーテム”達は、その旅の道で出会ったあらゆるもの、獣や植物や岩や泉、それらの名前を高らかに歌いながら天地創造を行った。
この「ソングライン」はイギリスの紀行小説家ブルース・チャトウィンが、オーストラリア全土に広がるこの”歌の道”を辿りながら、人間の本質が"定住"にではなく"放浪"にあるのではないか、という思考の旅に出る物語。
かつて美術オークション会社で近代絵画の専門家として働いていたチャトウィンは、社員の中でも優秀で、順風満帆な生活を送っていた。
しかしある朝目覚めた時、チャトウィンの目は何も映さなくなっていた。その日のうちに左目の視力は戻ったが、右目はずっと曇ったまま。
眼科医は、器官自体には何の異常もなく、チャトウィンの目の障害を、「至近距離でずっと絵を見ているからだ」と見立てた。
「遠い地平線を見に行ったらどうか」と言われたチャトウィンはアフリカへの旅を決意する。
べジャ族という遊牧民の土地での旅を終え帰国したチャトウィンは、彼らの、時代の変化に屈しない、不遜なまでの生命力の秘密を知りたいと強く思い、仕事をやめて乾燥地帯へと舞い戻る。
レギバット、カシュガイ、タイマニ、トルクメン、ボロロ、トゥアレグ。自分とは違う、始まりも終わりもない旅を続ける遊牧民達を知るうちに、歴史を動かしてきたのは遊牧民だという考えが、チャトウィンの中で確信へと変わっていった。
チャトウィンを語る上で欠かせないのが「モレスキンノート」の存在だ。
モレスキンとは、モグラの毛皮を意味している。1980年代にフランスのトゥールにある小さな家族経営の工場で作られていたそのノートに、チャトウィンはそれぞれ通し番号をつけ、最初のページには名前と住所を記し、拾ってくれた場合には謝礼をすると書き添えて愛用していた。
オーストラリアへ旅立つ数ヶ月前、パリのラシェンヌ・コメディ通りにある行きつけの文具店を訪れた時、チャトウィンはそこの店主に、「本物のモレスキンが手に入りにくくなっている」と告げられる。
チャトウィンは店主にモレスキンを100冊注文した。それだけあれば一生もつだろうと。しかしながらチャトウィンの願いは叶わない。製造業者はすでに亡くなってしまい、後継者も工場を売り払ってしまっていたのだ。店主は死を悼むように「本物のモレスキンはもうありません」とチャトウィンに告げる。
チャトウィンはこれを暗示と捉えた。自分の人生における”旅の季節”が、遠からず終わると悟ったのだ。
物語の序盤、チャトウィンはアボリジニ擁護運動家のアルカジー・ヴォルチョクを案内人としてソングラインを辿ってゆくが、終盤では、チャトウィンのこれまでの人生そのものと呼べるモレスキンノートを案内人として、思考の内側を旅してゆく。ランボー、ボードレール、ルナン、ハーマン、パスカル、ハイデッガー、聖書、インドのことわざ、シュメールの言葉。詩や論文の引用に始まり、思想の走り書き、これまでの旅での出来事や人との会話など、それはまるで遊牧民の旅のよう、留まることから離れ続けたチャトウィンのノートに相応しい内容がめくるめく展開してゆく。
「ソングライン」の執筆時、チャトウィンは死の淵に立っていた。旅先で悪い病気をもらったと友人らには説明していたが、実際のところ、彼の体を冒していたのはHIVだ。
「ソングライン」とは、チャトウィンが憧れ焦がれ、人の真理と信じたノマディズムへ至ろうとする、文字通り、命がけの旅の軌跡。
物語の最後、チャトウィンは今まさに死に向かっている男達の最期を看取るが、彼らの微笑みは穏やかだったと言う。自らがどこへ向かっているのか。彼らにはわかっていたからだ。
これはチャトウィンが描いた真実の虚構。ドキュメンタリーでなく文学だ。作中の会話の大半はチャトウィンの生み出した架空のやり取りであり、それら全てがチャトウィンの目指した正しい場所へと、まるでソングラインのように延びている。
かつてフランスの呪われた作家、ルイ=フェルディナン・セリーヌは「夜の果てへの旅」の序文にこう書いた。
旅に出るのは有益だ。これ以外のものは全て失望と疲労を与えるだけだ。僕の旅は完全に想像のものであり、それが強みでもある。これは誰にだってできることだ。目を閉じさえすれば良い。すると、人生の向こう側だ。
僕たちは「ソングライン」を開くだけで良い。すると、人生の向こう側へ行ける。
アボリジニという生まれついての芸術家たちが先祖代々受け継いできた「ソングライン」という名の第一級の物語群は、ブルース・チャトウィンという最上級の語り手を通して至高の域へと到達した。今過ごしている人生に、生活に、世界に、何かしらの疑問をもっているのならば「ソングライン」を開けばいい。あなたにもあるはずだ。世界がもっと単純に見えていた頃の幸福な記憶が。昨日の約束、今日の仕事、明日の予定、過去の傷や将来の不安に縛られることのない、自由で純粋な、今目の前に広がる世界が全てだった幼い季節の思い出が。
ブルース・チャトウィンが今一度そこへ誘ってくれると断言しよう。