絶望なんて大したことじゃない。何も感じないことが最もつらい。
悲しんだり、傷付いたり、落ち込んだりと精神的に苦しいときよりも常に何も感じないときが僕にとっては一番つらい。
暗い感情というのは、僕にとってはガソリンのようなものであり、その想いが僕をこの世界に留まらせている感覚がある。
少しマゾヒストなのかも知れないが、心は苦しければ苦しい程に美しく、想いを解放するときに眩い光を放つ。
脳内でぐるぐると渦巻く陰鬱な気持ちをありのままに文章として出力する瞬間に勝る快楽はないのやも知れない。
自分が最も自分らしくいられるのは、ただ無心で感じるがままに文字を綴っている瞬間のような気がしている。
僕は世界を変えてやると思うほどにエネルギッシュなときもあれば、何もかもが憂鬱だと思うネガティブなときもある。
躁鬱病の僕は基本的にはリバーシのように白か黒かがハッキリとした精神構造ではあるのだが、そうではない時もしばしばある。
それが何も感じない無関心で無気力な状態だ。
あくまで推測だが、自分の限界の更に限界を迎えた時に脳が自動的に外界からの精神負荷のかかる情報の処理を遮断しているような気がする。
また、これ以上周りのことを考えすぎると僕が壊れてしまうから自分へのダメージを最小限にして、システム的に物事を考え回復を図ろうとしているのだと思う。
この状態が嫌で嫌で仕方がない。
無気力なのは百歩譲って許せたとしても、無関心な自分を許すことはできない。
人に対して他よりも気を遣ってしまう自分だからこそ見える視点があるだろうし、悲劇を深く心に落とし込み、絶望を味わうことができるからこそ表現できるものがある。
端的にいうなら、生きる中で平面的にしか感じられなくなったら終わりだと思っている。
自分が自分で無くなることが耐え難いというのもあるが、今まで寄り添えていた人に対して感情移入が出来なくなったり、共感を与えられなくなることが何よりも辛い。
正直な話、今の自分は無気力で無関心な状態でこの文章を書いている。何を書けばよいかも分からないし、自分の想いが乗っているとも思えない。
ただ無駄なことは絶対にしたくはないし、ありのままの僕を伝えたいから、心の奥底に散らばった想いの欠片をなんとか束ねて文字と化している。
今は生きていて何も楽しくもなければ苦しくもない。
抱えていた悩みも何処かに吹き飛んでしまったのかと思うほどに脳内にモヤがない。
ただ全てが晴れてクリアかというとそうでは無くて、何かがおかしいという違和感を身体と心が感じている。
自分が自分で無くなってしまったときは、ゆっくりと休息を取り、アートや自然と触れていく中でもう一度己を取り戻すのが良いだろう。
出来ることなら、壊れる前に何とかできれば一番いい。ただどうしても無理をしてしまう自分がいるのならもういっそう受け入れてしまおう。
そして壊れたあとで少しずつまた戻ってゆこう。
大好きで大嫌いな自分に。
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