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仕事上の価値だけでなく、生きやすさと生きづらさも生み出す”原家族での体験”
「全部、アツさんが悪いんですからね」
取引先の40代後半の男性はぼくにそう言い放つと、ひとりさっさと新幹線に乗り込んでいった。
突然の非難をうまく飲み込めず、ぼくは泣きそうになりながらプラットフォームに立ち尽くしていた。
呉服屋から商社に転職し、3ヶ月目のことだった。
四国のとある工場に出張に来たぼくは、仕事上のミスをして、その方に面倒をかけてしまったようだった。
”ようだった”というのは、なにが悪いのかさっぱりわからなかったのだ。今でもさっぱり覚えていない。
段取りが下手くそだったとか、説明が足りなかったとか、きっとなにかヘマをしたのだと思う。
商社勤務時代はそれ以外にもたくさん怒られたことがあり、自分への自信なんてこれっぽちもなかった。
あれから20年以上が経ち、当時を振り返って思うのは、人には向き不向きがあり、いくら頑張ってもなかなかできるようにならないものがあるということだ。
同時に思うことは、これならば他の人にも勝てるというものもあるということ。
それがきっと天職と呼ばれるものだと思うけど、それは職種や業種といったカテゴリーではなく、個人の特性というフワッとしたものなんじゃないかと思う。
マーケティングや営業といった職種ではなくて、「こういう人の心を、こういう風に動かすことが得意」とか、そういった抽象的なスキルを意識した方が自分の価値を出しやすいなと思う。
ぼくの場合、それは「女性の心を動かすこと」でした。
そして、それがぼくの原家族(生まれ育った家庭)の影響によるものだと知ったのは、つい最近のことでした。
認知力が激しく落ちたサラリーマン生活
新卒で働いた呉服屋が2年目に倒産し、ぼくは東京に出て商社で働くことになりました。
これがまったくうまくいかなかったんです。まったく使い物にならなくてお荷物扱いでした。
呉服屋時代の実績(街中を歩き回ってお客さんを作ったなど)を引っ提げて転職をしており、会社としてはそのギャップもあって、余計期待はずれだったようです。
メールを書くのに1日かけていたり、英語ミーティングでは何を言っているかさっぱりわからなくて居眠りしてしまったり。
(そりゃ、クビにするよね)と自分でも思うような、本当にどうしようもないダメ社員でした。
今思い返してみると、おそらく仕事ができなかった最大の理由は、怒られることによって認知力が下がり、まともな思考ができていなかったからだと思うんです。
まともな思考ができないから仕事でヘマをして、怒られてさらに認知力が下がるという繰り返しの日々でした。
ぼくが子どものころ、ぼくの父は瞬間湯沸かし器のようにすぐに怒る人でした。
できるだけ父とは関わらないように避けて暮らしてきたんですが、その影響なのか、20代になっても中年男性が苦手だったんです。
こちらが何もしていなくても、いつ相手が怒り出すんじゃないかと怖かったんです。父は前触れなく怒り出す人だったので。
怒る父親、泣く母親、父(義理の息子)に不満を抱く祖母。この三者のなかで、ぼくはいつも揺れ動いていました。
これ、実は今でも少し残っていて、自分より年上の男性のことを基本的に信用できない自分がいるんです。
裏切られるから信頼しちゃいけないとか、いつキレるか分からないから距離を置いておこうとか、無意識でそんなことを考えているんです。
相手がどんなに温厚な人であっても。
20代の頃は、自分のそんな意識のクセに気づけていなかったので、自分の父のように怒りっぽい男性と働くことはとってもストレスだったんです。
きっと、うまく立ち回れる人はいると思います。ぼくのまわりにもそんな環境でもうまく仕事を回している人がいますし、その環境を変えようとする人もいます。
でも、ぼくは蛇に睨まれたネズミのように身動きが取れなくなり、まともに頭が働かなくなってしまったんです。
そして、数ヶ月後、ぼくはあっけなくクビになりました。
なぜかうまくいく女性との仕事
その後、あらゆるビジネス書を読み漁り、フツーの企業で求められている役割を学び(呉服屋と一般企業はやはりまったく違っていました)、中年男性の多い職場でもなんとか自分を適用させながら働けるようになりました。
他の人にはない自分の特性に気がついたのは、20代後半になってからでした。なぜか、ぼくは女性と仕事をする機会が他の人より多かったんです。
取引先もなぜか女性が多く、普段一緒に仕事をするメンバーも少しづつ女性ばかりになっていきました。
その理由に気がついたのは、とある企業に出向していたある日のことです。
その企業は新しいビジネスを始めたばかりのベンチャーでした。課題が山のように降り積り、誰もが自分の仕事をかき分けることに夢中で、他の人の課題に目を向ける余裕なんてありませんでした。
ぼくが配属された部署のリーダーは、当時40代になったばかりの女性でした。
膨大な業務と課題におぼれそうになっているぼくらは、荒れ狂う海にさまよう一隻の船のようでした。
嵐のなか、コンパスを頼りに前に進むけど、コンパスはしょっちゅう行き先を変え(上司の指示がコロコロ変わる)、船はすぐに壊れます。(メンタルやられる社員続出)
ストレスフルで、息絶えそうになりながら、なんとか毎日を生き延びていたぼくらですが、ある日、そのリーダーがいつも以上に頭を抱えて困っていたんです。
業務管理ツールをエクセルで作っていましたが、彼女はエクセルが苦手で泣きそうになりながらエクセルを編集していたんです。
その日は22時を過ぎても帰れそうにない状況でした。
「どうしよう、全然できない……」
頭を抱える彼女を見ていたら、ぼくは無意識のうちにこう言っていました。
「ぼくがやりますよ」
エクセルの知識なんてほとんどなかったけれど、できるフリをして引き受け、ネットで必死に調べながらなんとか業務管理ツールを作り上げました。
その後、他の女性メンバーからもエクセルの質問が来るようになり、引き受けてからやり方を調べることを繰り返しているうちに、次第に本当に詳しくなり、彼女たちから頼りにされるようになりました。
また、取引先にとても気難しい女性がおり、ぼくの同僚たちはみんな関わりを避けていたのですが、ぼくだけが仕事を取れたこともありました。
その方は細かい質問や調整を依頼してくるので、他の人は関わりを避けていたんです。
でも、彼女は”分からないことが多くて不安”なだけだったんです。
困っているから助けてあげようと思い、仕事を手伝っているうちにいつの間にか発注をもらえるようになっていたんです。
その後、ぼくが転職をするときに、その方はとてもよくしてくださって、その方のおかげでいい条件で転職をすることもできました。
こうやって当時を振り返ると、ぼくは”困っている女性を助けたい”という感情が、他の男性よりも強いんじゃないのかなと思うんです。
関わっても面倒なことになるだけだと分かっていても、なぜか放っておけない。
もしかしたら、これはぼくの原家族(生まれ育った家庭)の影響なのかもしれません。
繰り返される原家族での体験
結婚相手に自分の親に似た人を選んでしまう。
子どもの頃に親から虐待を受けた経験があると、同じ経験を自分が親になってから繰り返してしまう。
家族内の役割がシステムとして機能しており、そのシステムを世代が変わっても繰り返してしまう。
原家族での体験は、その家族から離れても強い影響を与えるそうです。このポッドキャストがとてもわかりやすいです。
ぼくは、怒る父親と母親の間に挟まれ、つねに母親側についてきました。
母親が困ったことにならないように、子どもの頃はできるだけそばについてあげようと意識していたのをうっすらと覚えています。
辛そうな顔をする母親をなぐさめたい、元気づけたいと思っていたんです。
祖母はぼくの父(祖母にとっては義理の息子)が嫌いで、いつも悪口を言っていました。
そんな祖母の悪口が好きではなかったけど、ぼくはいつも「そうなんだね。そうなんだね」と祖母のことをなだめていました。
悪者である父、被害を受ける母、母親側に立ち、母を助けたいと願うぼく。
そんな構図が、ぼくの原家族にシステムとして構築されてしまっていたんだと思います。
そして、社会に出てからも、ぼくはその原家族での役割を再現している。
自分でも気がつかないうちに。
「対女性」という仕事において、求められるニーズにピタッとはまり、ぼくは天職のように女性との仕事をスムーズに進められる。
生まれ育った家庭で起こった出来事は決して楽しいことばかりではなく、年上の男性に対する苦手意識をぼくに植え付けることになったけれど、別のギフトも授けてくれたようでした。
今でも女性との仕事は多く、特に誰かとのコミュニケーションでつまずいている女性の間に入り、調整役をする機会が多いです。
その女性の気持ちをほぐして伝えたいメッセージを聞き取ったり、またはその女性に届きやすいようにメッセージの伝え方を工夫したり。
昔、実家で母親と祖母に対して行っていた作業を、ぼくは仕事においても再現している。
自分が望んだわけでもないのに、意識しているわけでもないのに、空気を吸って吐くように、いつの間にかぼくはそんなことをしている。
困っている女性を助けることで、子どもの頃に助けられなかった母を助けようとしているのか。
子どものぼくにはどうしても消し去ることができなかった”家庭内に立ち込めていた暗雲”を、ぼくは今でも追いやろうとしているのか。
父はだいぶ丸くなったから母も祖母も困ることはないのに、ぼくはいったいなにをしようとしているのか。
原家族での体験によってぼくの中に組み込まれたシステムは、ぼくの意識の及ばないところで走り続け、ぼくを前へと進ませる。
このシステムがぼくをどこへ連れていくのか、ぼくにも分からない。
だけど、ひとつだけ確実に言えることは、そのシステムが仕事におけるぼくの価値を見出してくれたことでした。
ぼくが好むと好まざるとに関わらず、そのシステムは走り続けるのだとしたら、どうかうまく付き合っていきたいと思う。
たぶん、このシステムは、仕事における価値だけではなく、ぼくにとっての生きやすさと生きづらさの両方を生み出すことになるのだから。
きっと今日もまた、ぼくは女性の話に自然と耳を傾け、年上男性の影におびえがらも(だいじょうぶ。だいじょうぶ)と、自分に声をかけながら前を向くのだと思います。
ぼくのなかを走るシステムの音が小さくなる、その日まで。