言葉の奥を想像する「1、Junk Food」
最近、芸人さんが
「人間味出していこう」
「最近は芸人にも人間味が大事」
と言っているのをよく聞きませんか?
ここで「人間味」っていうのは
「その人特有のこだわり」というよりも、
「親近感」に近いことを指しています。
昔なら親近感が湧く芸人さんよりも、
尖りまくりのセンスバリバリな芸人さんが多かった、
というより、
そんな芸人に憧れている人が多かったです
(ビートたけしさんやダウンタウンさんの影響でしょう)。
何故この様に変化しているのでしょうか。
これには時代背景と、
アイドル「乃木坂46」がトップアイドルになった理由とも関連すると考えたのでそのことについて述べてみました。
しかし前置きが超長いので、どうぞよろしく。
追記:鬼長くなりました。なのに、この記事ではまだ本題に入ってません。もう本格的に誰も読まないですね。まあいいか。
具象画と抽象画
近年ではテレビや音楽、人の思想や科学など、あらゆるカルチャーにおいて、
ある極端な傾向が生まれているのではないかと考えています。
その傾向を私は「ジャンクフード化」と呼んでいます。私の造語です。
このジャンクフード化について述べる前に、具象画的・抽象画的ということについて述べていきます。
ごめんなさい、これも私の造語です。
具象画
具象画とは、簡単に言えば、見たものをそのまま描いたものです。具象画では美しい景色や人、はたまた空想上の物など、具体的な形や色を持ったものが描かれます。
具象画は、パッと見て「美しい・素晴らしい」と思わせるパワーを持つものが多く、ある種、分かりやすいアートです。
しかしその実、「何故、作者はこの場面を切り取ったのか」「何故、自分はこれを美しい・辛いと感じたのか」「この感情はどんな経験や記憶と結びついているのだろうか」など、多くの疑問を生みます。論理的、感情的なものに限らず、深みのある考察や感情を楽しむことが可能なアートでもあります。
その分かりやすい見た目のパワーとは裏腹にとても奥深いものです。
抽象画
抽象画は、景色や抱いた感情などを、見たままではなく感じたように描くアートです。
具象画とは打って変わり、具体的な形や色から脱却する事が特徴的です。
パッと見ただけでは何か分からず、解釈が難しい事がすぐに分かります。
ある意味、「難しい」という事がパッと見て分かるアートです。
抽象画と具象画は、どちらが良いなどとは(少なくとも素人にとって)判断すべきものではありません。難しいから良いというわけでも、分かりやすいから良いというわけでもありません。また、楽しみ方が深いから良い、浅いから悪いというわけでもありません。その都度、自身の楽しみ方で楽しめば良いものだと思います。
と、何やら偉そうに述べましたが、「具象画的」「抽象画的」という言葉を定義するために私の個人的な具象画・抽象画に対する浅はかな考えを述べただけです。
本題は以下からです。
ジャンクフード化
以下では、
「具象画的な作品」を、パッと見てその作品の面白さが伝わり、すぐに楽しむ事が出来るものとし、
「抽象画的な作品」を、パッと見てその作品の難しさが伝わり、すぐに考察を楽しめるもののこととします。
一般的には、一つの作品がどちらか一方であるとは限らず、その両方の側面を持ちます。
また、その解釈は受け取り手側の知識や経験にも依存します。受け取り手によっては具象画的と感じたり、反対に抽象画的と感じる事もあります。
つまり、一般的には、一つの作品に対して「これは具象画的だ」や「抽象画的だ」と断定できるものではありません。
しかし近年、ほぼ断定できる様な作品が多くのカルチャーで増えているではないかと考えています。
別の言い方をすると、
「具象画的か抽象画的か、は断定できる」という思考がスタンダードになっているのでないか、という事でもあります。
これを私は作品の「ジャンクフード化」と呼んでいます。
ジャンクフード
日本食やフランス料理や、世界各国には伝統的な料理がたくさん存在します。
食材ごとにカットの仕方を変える事はもちろん、同じ料理に使うものでも食材ごとに火を通す時間を変えたり、
スープで煮込む時間を変えたり、食材の味を引き出す工夫が数多く散りばめられています。
その職人の仕事を楽しむには「丁寧に味を楽しむ」必要があります。
そのような難しい料理がある一方で、一瞬でおいしい!と分かる料理も開発されています。
ハンバーガーやピザ、ラーメン、ポテチチップスなどのジャンクフードはその典型例です。
原始人の頃、人類にとって特に塩分は極めて貴重なものでした。
その貴重な栄養素を安定的に得るために人類は塩分の生産に多くの努力をし、
現代では大量精製できるまでになりました。
しかし、人類の脳の進化はその進歩に追いついておらず、塩分への欲求にリミッターが未だ設けられていないのです。
こういった理由から、大量の塩と糖質と油が使われたジャンクフードは、人間が本能的に必ず美味しいと感じるようにできているのです。
ジャンクフードは簡単に美味しさを与えてくれる一方で、健康被害や多くの食文化の衰退につながりました。
テレビ番組における「ジャンクフード化」
今では長めのコントをする番組やシュールなネタ番組は殆ど無くなりました。
代わりに、VTRを見てコメントする番組や、数十秒のネタの番組、お得な情報などお知らせする番組に溢れています。
またドラマやアニメでも微妙な人間関係の作品は数を減らし、ミステリーや恋愛もの、漫画の実写化などのアクションものが増えています。
(時々、今でもコント番組や微妙な人間関係のドラマなどが放送される事がありますが、せいぜい1クールに1つです。)
これらの特徴として、テンポが早い、というものがあります。これは単純なコマ送りの早さという事だけではなく、情報伝達のテンポのことを指します。つまり、数秒間で必ず少なくとも一つは何かしらの内容(役に立つこと、笑えること、嬉しいこと、悲しいこと)が伝わり、曖昧な時間が数分以上も続くことが少ないのです。
視聴者が何かしらの疑問を抱いたとしても、数十秒の間でほぼ間違いなく解決し、次に進めるような構造になっています。
解決しない疑問があるとすれば、それはCMを跨ぐ為か、次週に持ち越す為に用意されたものです。
早いテンポで情報が入るには、難しい情報ではなし得ません。
つまり、テンポの速い情報伝達とは、得られるものが単純化している、ということでもあります。
本来、他人の感情や他人の考え、専門知識などはすぐに分からないことです。
私たちの生活には、解決するためにある程度の時間を要したり、
疑問を抱えたままある程度先に進む必要があるという場面が数多く存在します。
それが近年のテレビ番組では極端に削られているようです。
この構造は前述したジャンクフードとよく似ています。私はこれを「ジャンクフード化」と呼んでいます。
このようなジャンクフード化は他の所でも散見されます。
人の愛における「ジャンクフード化」
エーリッヒ・フロム「愛するということ」に面白いことが書かれていました。
簡単にいうと、
人には「孤独からの脱却」という欲望があり、そのための方法をたくさん考案してきた。
その中の一つとして祝祭的興奮状態による他者との一体化というものが挙げられる。
これは儀式的な行為を通じて、他者と同時に興奮状態になることで一体感を得る、というもの。
これは刺激的で、持続性はない。極端な例は乱交やドラッグ、アルコール依存などがある。
愛の無いセックスもその一つである。
この本で紹介する「愛」は持続可能かつ、安全に他者と一体化が可能な技術である。
しかし、多くの人が愛を技術とは考えておらず、運命的で偶然の産物だと思っている。
また、恋に落ちる、というような突発的な感情と混同している場合が多い。
本来愛するということは、奇跡ではなく、修練が必要な技術である。
という主張です。
「愛するということ」が具体的にどのような技術なのかは以前書いた記事を参照していただきたいです。
ここで面白いことは、孤独からの脱却など、単純な人間関係においても「ジャンクフード化」が進んでいることが見て取れる点です。
孤独からの脱却のために刺激的で簡単な手法が開発され、習得にある程度の労力が必要な「愛」に対する人類の認識が弱まっているということです。
人の思考における「ジャンクフード化」
情報の簡単化とテンポの高速化という「ジャンクフード化」をいくつかの例で述べました。
私は、人の思考においてもその傾向があるのでは無いか、と考えました。
つまり、比較的簡単な情報を欲し、曖昧なものや理解に時間を要するものへの認識が弱まっている、ということです。
というか、むしろ、人の思考に「ジャンクフード化」の傾向があるから、その他のカルチャーおいて「ジャンクフード化」が露呈した、
と考えています。その原因について簡単に考察してみました。
経済的合理主義のスタンダード化
大きな原因の一つとして、経済的合理主義がスタンダードになりつつあるということが挙げられます。
ここでは簡単に、損得勘定とほぼ同じ意味で使います。
普通、ある疑問に対して明確な答えを得る事は困難です。
論理的に正しくても感情的には受け入れ難い。
美学は貫けるが、損はする。
寛容にしてやりたいが今は厳格さも大事。
報復してやりたいが自分の中の善意がそれを赦さない。
などなど、多くの矛盾の綱引きにより、答えは一つにはなり得ません。
多くの場面でこのようなことが起こります。
個人的な問題ではそのまま放置していてもいいですが、
集団で行動するには答えを用意しないわけにはいきません。
行動をするとは選択をするということです。
そのために用意された基準が、モラルや道徳といったある種の「常識」です。
これは、「矛盾綱引き」のある一場面を切り取って、それを「正解」と定義したものです。
多くの場合、平均的意見や宗教観・伝統的文化観で決まります。
そのため、異なる文化間で「常識」は異なります。
また、当然ですが、全ての人にとっての正解にもなりません。
とても曖昧で、同じ文化圏の人間でも全く同じ常識を共有できているとも限りません。
・全ての人の正解ではない。
・曖昧である。
というのは一見してデメリットですが、これは極端な思考を避けるために必要な要素でもあります。
そもそも、全ての人で正解が異なるから、常識が作られたのです。
つまり、そもそもが全ての人に合うために作られたものではありません。
また、曖昧さがなければ多くの人や異なる状況にマッチしない可能性があります。
柔軟性を持たせることである程度の状況判断の余地を残しています。
つまり、デメリットに見える二つの要素は、メリットと引き換えに用意されたものであることがわかります。
そもそも、矛盾したものの綱引きの一場面ですので、どちらかの価値観では必ず何割か不正解になります。
矛盾したもの両方で100点の正解は得られません。
これを踏まえると、モラルや道徳といった常識が全ての人の正解ではないことはもちろん、
曖昧であることも当然です。
しかし、これは集団の構成要素である人間に、大きい個体差があることを前提としています。
個体差が小さくなれば、常識はより多くの人の正解になり、同時に曖昧さは減少します。
これは「より多くの人の正解になるために上手い回答を考える」の逆の発想ですね。
そもそもの原因を潰す発想です。
これが現代社会の傾向であると考えます。
没個性として平等を作ることで、汎用化可能な常識を作ることができるようになってきています。
このような傾向になることは当然で、集団を動かす立場の人間からすればこうなった方が楽だからです。
いつも状況判断していては動作が遅くなります。曖昧な答えではなく、明確な答えがあった方がすぐに動けます。
明確な判断をもたらす価値観と思考で、人類が最も得意なものが論理的価値観や思考です。
ここでは、状況の簡単化と損得勘定による物事の判断を指しています。これを経済的合理性とします。
論理は、得られた情報を簡単化し物事のつながりを明確にすることです。
そして、純粋なメリットデメリットを基準にすることは、単純な数値に置き換えることができるため、
論理構造の組み立てととても相性が良いものです。というかそのために作られたものですね。
つまり、経済的合理性に基づく判断は極めて曖昧さが小さく、分かりやすいのです。
これが人の思考における「ジャンクフード」です。
ジャンクフードが開発されれば、待ってましたと言わんばかりに多くの人がそれに食い付きます。
現に、現代には経済的合理主義の人で溢れています。
これが人の思考における「ジャンクフード化」に繋がっています。
これは他の価値観の衰退にも繋がります。
大打撃を受けているのが芸術や基礎科学ですね。
「より効率よく生きたい」という物質的欲求と並列に、
「より自然と一体に生きたい」「より美しく生きたい」という精神的欲求があることが失われつつあります。
まあ、この話はまた今度します。
思考のジャンクフード化によって他の価値観の喪失だけでなく、物事の判断のテンポが早まっているのです。
SNS
経済的合理主義のスタンダード化の他に、人の思考のジャンクフード化にSNSも関わっていると考えています。
本来、多くの矛盾の綱引きにより、答えは一つにはならず、曖昧なものになると言いました。
重要な場面でない限り、曖昧な解答をあえて主張する必要はありません。
また、曖昧ものでは主張する気も起きないでしょう。
つまり、自身の考えを主張するまでに「必要性」と「具体性」という、
二つの依存しあったハードルがあり、曖昧な答えではそのハードルを越える事は難しいのです。
これを逆に言えば、矛盾の綱引きが起きにくい人、具体的な答えを出せる人は、そのハードルを簡単に越えられる事になります。
ここに加えて、SNSです。SNSによって主張をする労力が減ることで「必要性」というハードルをさらに越えやすくなります。
SNSによって、ある程度の明確な答えを持った人の発言が昔より際立つ様になりました。
これは経済的合理主義のスタンダード化と相乗効果が考えられます。
経済的合理主義のスタンダード化が進めば、自身の考えを主張するまでの「具体性」というハードルが下がります。
これにより、経済的合理主義の主張が際立つことになり、経済的合理主義のスタンダード化が進むと考えられます。
以上が人の思考全体の「ジャンクフード化」に関する考察です。
次回ではその影響について述べていきます。
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