ノーベル文学賞の季節に思う
本日の経済学賞をもって本年のノーベル賞週間も終了。
被団協が平和賞を受賞したこと、というかこれまでとこれからの活動に心から敬意を表する。
核廃絶、戦争反対の思いを心新たにする機会にしたい。
そこには、被爆国としてという前提があるかもしれない。
文学賞は韓国の作家さんが受賞したそうだ。
報じた中には「同じアジア人として」みたいな文言があったけれど、私はこういう感覚が苦手。
世界的な賞を受けたり、偉業を成し遂げたことに、「なに人」を持ち出すと、途端に居心地が悪くなる。
だから日本人が受賞した時によく言われる「同じ日本人として」というコメントも嫌い。
それは、被爆国の核廃絶運動が評価されたのと、すこし違うと思っている。
母国のアイデンティティから生まれたとしても、文学は個人のもの。
あくまでも私個人の感覚では。
ノーベル文学賞の対象となるには、まず翻訳が必要である。
選考委員の人たちは、たぶん日本語や韓国語が読めない。
実験や検証データの発表や学術的な論文ならば、そもそも初めから英語で書かれているだろうし、また万一翻訳者の手にかかっても、原文とのニュアンスはそう変わりないと思う。
しかし、文学は違うのではないか。
韓国語はわからないけれど、日本語で書かれた文学は、漢字の同音異語など一文字一文字の使い分けにも神経を配って、作者の精神世界を具現しようとしている。
実験結果の数字やグラフのように、はっきりとした正も誤もないのだ。
どんなに苦心しても、伝えたいことが的確な言葉にならないということが、プロの作家にもあるのではないかと想像する。
そこを汲み取るために原語の表現と理解は重要なのではないか。
しかし選考の土俵に上がるためには、原語は別の言語に置き換えられて世界に発信され、それをまた自分の母国語のニュアンスで受け止める。
そうやって評価された「日本語(母国語以外)の文学」に、私は大きな違和感を持っている。
評判になり、発行部数が伸び、世界の賞賛を浴びるのは、結局は「多くの言語に翻訳されたもの」に限定されるのではないか。
そういう限定条件のもとに選定された世界的な文学賞受賞作家または作品と、未翻訳でその国の人だけがその国の言語で味わうだけのそれらと優劣は争えないし、文学は優劣とは無縁のものと思う。
昔、大御所の芸人さんが「わて、M1は嫌いですねん。お笑いに順番をつけたり、人と競争する材料にされるのはイヤですねん」と言ってその番組のゲストだかMCだかの依頼を断ったという話が伝えられたことがあり、私はお笑いにあまり興味はないが、ほんまにそうやわぁ、と思ったことがある。
人の脳ではなく心に語りかけるもの、データで表すことができないものに、得点をつけるのは、どうにも居心地が悪い。
拙記事「私のミラボー橋」にも書いている。
繰り言は老害の典型的なものだろうが、この季節になるといつもこれを思わずにいられない。
副業(もとの正業)で、外国語の講演やインタビューやディスカッションを校閲・編集することがある。
これらは、同時通訳か逐次通訳を介して文字に起こされ、私のもとに送られてくる。
そのままではわかりにくい話し言葉を書き言葉に直していくわけだが、日本語になった文章を見るたび、これって本当にこういうことを言いたかったのかしら?と不安になる。
原語で訴えたはずのニュアンスと、通訳者が解したもの、さらに私が手を入れた日本語は違うものになっているんじゃないかしら。
私は、日本人が日本語で読むときに理解しやすいように、勝手に日本人の精神的土壌に乗せてしまっていないかしら。
ヨーロッパではたびたび中華料理店に入った。
日本語の文字に飢えていたので、漢字の看板を見ると、ついふらふらと吸い込まれてしまう。
当時のフランスの中華料理店は、どこかベトナムふう。
オランダでは、インドネシアふうだった。
日本で食べる異国の料理も、日本人の好みに合うようにアレンジされているのだろう。
そういうことを、言葉の選択のうえでもしているのではないかと、訳文の仕事のたびに思う。
外国語が超苦手な私だからかもしれない。
写真はイタリアのフィエゾレ。
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