無神経
拝読している記事で先生のことが書かれてあった。
一瞬、同じ教師かと思ったくらい私の経験と似ているので書いておくことにした。
前にちょろっと書いたかもしれないけど、長年書き続けているので、もうどこのサイトだったかも思い出せない。
その話、知ってるよというかたがおられたら申し訳ない。
一家して夜逃げして上京したのは、小学校に上がる前の年だ。
幼稚園・保育園経験のない私は、同年代の子供とのコミュニケーション能力に欠けていた。
方言丸出しだし、みんなが知っている遊びもお遊戯も歌も知らない。
そして、格段に貧乏だった。
難民体型だし、下着は洗濯してもらってたけど、上に着るものはいつも同じようなもの。
いじめられる要因には事欠かなかった。
でも、私には期待があった。
小学校に通うようになったら、いろんな子がいるはず。
私みたいな子もきっといるはず。
友達もできるはず。
担任は、40代の女性だった。
それは最初の授業で起こった。
小さな「っ」の入る言葉を言ってくださいみたいな質問があって、みんなまだ慣れていないのもあって、誰も手を挙げなかった。
私は、いまもだけれどこういう状態が耐えられない。
講演会や研修会や説明会で、「質問のあるかた」と演者が言っているのに誰も質問しない状況、その沈黙に我慢できない。
質疑応答の時間をとっているのに何の発言もないのって、なんか演者が気の毒すぎる。
ちゃんと聞いていなかったみたいに感じるし、つまらなかったのかなって落ち込みそうな気がして。
だから、大人になってからは「誰も質問しない場合」に備えて、前もって質問を考えておく。
私くらいは何か言わなくちゃって。
それで手を挙げて、指名された。
私は「ナッパ」と言った。
感じで書くと「菜っ葉」だけど、私の郷里のイントネーションは、東京のものと違う。
え?
なんのこと?
という雰囲気。
それで教師は「ラッパ?」と言い直した。
吹いて音がでるやつね。
それだって間違ってないので、そのままにしておけば良かったといまは思う。
でも私は言い直した。
田舎のイントネーションで。
何度も。
やがて、教師は腑に落ちた。
そしてその瞬間、爆笑した。
この時代、小学校1年生にとって先生は絶対的な存在である。
その人が笑った発音。
おかしいと思わないことのほうがおかしいんだという雰囲気になり、1拍遅れた感じで教室中が笑いに包まれた。
それは当の教師を含めて、私以外の人には、笑いに満ちた「明るい教室」になっていたのかもしれない。
でも。
私は「嘲笑された」と感じた。
そして、みんながその「嘲笑」を正しいことだと思っていることに絶望してしまった。
一緒になって「えへへ」と笑い飛ばすには、私のコミュニケーション能力はあまりにも低かった。
私は真っ赤になってうつむいていたと思う。
間違えたわけじゃないのに。
でも、それから私の田舎のイントネーションをからかわれるようになった。
わざと言わせてみんなで笑う。
何か言うとからかいの種になるから、しゃべたりたくなくなった。
すると、無理やり言わせようと、今度は手が出る。
こづいたり、ものを取ったり、隠したり。
これじゃ、近所のいじめっこと同じだ。
近所のいじめっこの親分が同じクラスというのも最悪だった。
私以外の児童から支持されているとわかると、教師も簡単にそっちについた。
私はどんどん孤立した。
誰も味方がいなかった。
だんだん学校に行かなくなった。
だって、集団登校のときから、近所とクラスのいじめっこが一緒なんだもん。
その子は、金持ちの家の子で、親がPTA会長とかやっている。
エリートを鼻にかけて傲慢だったが、誰も逆らえないオーラがあった。
自分では手を出さず、子分に命じていじめをさせた。
それを見ていて笑う陰湿な女の子だった。
登校時間になるとお腹が痛くなった。
「ズル休み」だと言われて、当の教師が家まで来てさらに責める。
そもそもあんたのせいだよと言いたいが、言えない。
家まで来て登校を促す教師を、「熱心な先生」とほめそやす人もいた。
学校に期待した私がバカだった。
都会っておっかないところだと思った。
家族には理由を言わなかったけれど、母はなんとなく察したふうで、そのうち無理に登校させようとはしなくなった。
勉強は、兄に個人教授してもらったので、テストのときだけ登校して、成績は良かった。
それがまたいじめを誘うのだが、テストでは方言で回答するわけではないし、文字にはイントネーションが出ないので、せめてそこでは負けられないと思っていた。
そうして得た優越感が、私の自己肯定力の低下を押しとどめた。
私は、自分をいじめたやつら(教師も含めて)を、心の中で徹底的に見下した。
自分も子供なのに「くだらない相手となんか話ができない」と思っていた。
そのためにも、テストの日の登校には耐えなければならない。
これはこれで、嫌な子であるのは間違いない。
そうして、進級に必要な最低限の登校日数だけ確保して、あとは不登校。
兄の本を読んだり、自分で物語やエッセイを書いたり、テレビが来てからは、母と大人向けのドラマを見ていろいろ考察したりケチをつけたりして過ごした。
いまと大差ない。
お腹が痛いということに関しては、母はそこら中の病院に連れて行って診せたが「精神的な要因」を指摘した医者は一人もいなかった。
そのころは、私は仮病で、母はそれを許しているダメな親ということになっていた。
小学校4年の秋に、両親の転職にともなって転校した。
それで少しずつ登校できるようになった。
そうなるまで、不登校を認めた母には大いに感謝している。
常識や世間の認識より、私を信じてくれた母に。
私は、いまもあのときの「ナッパ」の場面を生き生きと思い出すことができる。
その担任教師の名前もフルで覚えている。
その人は、私が不登校だった数年のあいだに「えこひいき」だと悪評が立ち、学期途中でいなくなったようだ。
えこひいきも嫌だが、無神経が一番罪深い。
自戒を込めて。