何度も見る夢といじめ
私は今でも時々ある夢をみる。
そして、その夢から目が覚めると
「夢だったのか」とほっとする自分がいる。
中学の3年間、いじめを受けていた。
中心にいたのは、学年の中でも身体が大きくて喧嘩の強いみんなが恐れていた男の子だった。
通っていた中学校は2つの小学校から生徒が集まる学区で、同じ小学校の出身者が少数派だったこともあり、もともと肩身が狭かった。
自分で言いたくはないが、実は当時は勉強に苦労したことがほぼなかった。
運動会のリレーの選手や作品展の賞などにもよく選ばれ、友達もたくさんいたし、先生たちもたくさん褒めてくれた。
しかし、それが目を付けられる原因になった。
先生に褒められると状況が悪化するというジレンマ。
いつからか人前に出ることが怖くなり、
自分のことに注目が集まらないでくれ、
と思う自分がいた。
授業中に紙を丸めたものを背中に投げつけられる。
授業で発表をしている時に、わざと笑われる。
「知的障がい者」と言われる。
「ばい菌」扱いされる。
雪玉を投げつけられる。
10年以上経った今でも鮮明に覚えている。
いじめのことは先生方も把握していた。
改善の努力はすると言われたし、私の話は聞いてくれた。
しかし、何か具体的に行動を起こして、私を助けてくれることはなかった。
耐えるしかなかった。
「学校に行くくらいなら死んだほうがマシ」
と思うことは何度もあった。
でも、同時にそんなことに負けてる自分が悔しかった。
いじめっ子がいない高校に行きたい。
「レベルの高い学校に行けば、優秀な人たちが集まっている」と自分を励まし、必死に勉強した。
今でもいじめられている夢をみることがある。
時には朝目が覚めると目元が濡れていて、「夢の中で泣いていたんだ」と気づくこともある。
人前に出るとあの時のことを思い出して、とても緊張してしまうことがある。
しかし、この経験を通して、学んだことがある。
それは、過去の記憶に対して、自分がどう意味づけを施すかで、いくらでもその記憶を塗り替えられるということである。
いじめを受けたのは辛かった。
しんどかった。
正直思い出したくない。
しかし、いじめを受けたことで、
弱者の視点を持つようになった。
人の心に共感できるようになった。
そう考えれば、いじめの記憶も決してネガティブなものだけではないと思う。
余談だが、私は大学で社会学を学んでいた。
そして、教育関係か何かの授業中に私はあることに気づいた。
——私をいじめていた彼は何か障がいを持っていた可能性が高い。
落ち着きが無く、じっと座っていられない。
授業中に急に奇声を発する。
よく物を壊す。イラつくと物に当たる。
先生に腹が立つと、暴力を振って度々問題になる。
今思い返すと「やんちゃな子ども」とか「ちょっと短気なのね」と表現するには、だいぶ度が過ぎた言動を繰り返していた。
もしかしたら、彼は彼自身に苛立っていて、いろいろ悩んでいたのかもしれないなと今は思う。
そう思うと彼も弱者なのかなと思ったりする。
そして、もしあの時、周りの大人たちがもっと彼に寄り添って的確なサポートができていたら、彼もいじめなんてしなかったのではないか?と時々思う。
当時の大人たちが全て悪いと結論づけるわけではない。
でも、今大人になった自分は、そういうことを絶対に見過ごさない人間でありたいと思う。
中学生の自分へ
あの時、きちんと辛い日々を乗り越えられたから、それが今の自分の支えになっているよ。