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物理と東洋

量子、という事を考慮に入れて東洋思想を鑑みると面白くなってくる。

それがないとブラックアウトする、という意味での意識を"意識"と言い、
そこに生じる認知過程を"認識"と言うように定義しておくと解りやすい。

物理現象とは本来、意識が意識を見ているという絶対的な運動である事。
そこに認識を投影しながら相対化し、その認識を現実として体験する事。

この矛盾したパラレルワールドを、表層と深層、顕在と潜在とするなら、

環境とそれを知覚する肉体機能が深層・潜在する意識という土台であり、
認識とそれを解釈した固定観念が表層・顕在する意識ということになる。

物理現象の土台が事実(意識)、解釈が主観(認識)と言う事もできる。
多くの人が潜在意識と誤解する精神世界は、実際には認識に属している。

物理現象(意識)は、ゼロポイントフィールド(意識以前)に生じるが、
意識と意識以前は別々のものではないので、自らを由として、自ら然る。

ゼロポイントフィールドが、単独で実体として存在するわけではない。
意識が生じるという事に対しての、意識以前という概念のことである。

"認識"以前に自我なる思考はないから、仏教で云えば縁起、空性となる。
運命宿命ではなく自由。自由意志ではなく自然。という実態が露呈する。

ここに、自然に沿うという事が無礙であり最善の道であるという概念が、
東洋の絵空事ではなく、科学的にも理に適っている事が示唆され始める。

意識とは認識の事ではなく、誰も止める事ができない自由無礙の自然、
つまりこの物理現象の全て、この身心の機能そのものという事になる。

"認識"を用いず、止まる事なき無礙の自然(じねん)であることを、
仏教に於いては如来と呼び、易に於いては時中と呼んで至極とする。

"よく易を修める者は占わず"

固定された吉凶などという実体は存在しない。
だから一流の占術家ほど自分の事を占わなくなる。

易に長けて何でも予知できるからではない。

"占わず"と言っている。

自由自然こそ無礙なる自己の姿だと悟るからである。

兆しに身を任せ、なるようになるのだから外れる事はなく、
一瞬前はもう無いのだから、何が起きても亨り抜けている。

予知と的中と開運は同時に成る。

量子論は超弦理論に至って人間が扱える範囲を逸脱していると言われる。
本来、絶対的であるものを相対化すると矛盾し、自由自然から逸脱する。

「最後に犠牲になるのは、多分、相対性理論だ」

と、デヴィッド・ボームは述べている。