量子力学の精髄
量子力学の精髄と言われる 二重スリット実験に目を向けてみると、
予言が的中する仕組みを、物理学的によく表している様に思われる。
波である素粒子がスリットを "通過する前" に "観測"すると粒となる。
だが "通過した後" に装置を用いて観測しても、
素粒子は波ではなく粒として振る舞うのである。
未来に観測される事が決まった時点、つまり、特定の時期を決定すると、
素粒子は粒として振る舞い、現実として物質化する、と言う事ができる。
まるで未来(結果)から、過去(原因)を決定しているかのように。
ここに、超弦理論の共時的とも同時並行的とも云うべき絶対性を踏まえ、
認識に上る前の、物理作用の在り方に着目するなら、偶然は必然になる。
ある事柄、ある時期について知ろうとする、易やホラリー等、卜占全般、
出生図のトランジットやディレクション、レクティファイにも該当する。
だが、それらによって実現する時期を"決定する"という事だけではない。
例えば その出生図を見る、ということ自体が "実現する" という事は、
その出生図を見る、という事を、意識以前に"決定"していたのである。
自分であれ、他者であれ、その出生図を見て知り得た事が的中するのは、
それを見る前に、見る事を決定しており、故に、必然の現実となり得る。
つまり、出生図を見て良い方向に自分で決定する、という意味ではない。
認識で変えられるような事は、本質的に意味がなく、元の木阿弥に戻る。
物理の現象と法則は確認できても、
何故そうなるかは相対的には判明しない。
維摩(空性不二)法華(因果同時)華厳(事事無礙)の科学を覚る為、
仏教における絶対性の体認、体得を、量子物理学の碩学たちは求める。
絶対的には自由、自然の自らの姿であろうものが、
相対的には宿命、運命と自らの対峙に見えてしまう。
絶対的には因果同時の連続が、相対的には果先因後に見えてしまう。
だから "神の意志" と "自己" になってしまう。
未来、過去、それは実際には "今" という無常変化の事である。
運命か、選択か、という命題、質問自体 誤解に基づいている。
神の意志でも、自分の選択でもない。
決定するところには、まだ、神も自分も存在しないのである。
認識以前、意識以前による決定が、
物理現象という姿で顕れている事になる。
この事物の真相を、仏教は"無自性空"とし、
これを二千五百年遅れて物理学が追認する。
マギー・ハイドはシンクロニシティの絶対性を踏まえ ホラリーを重視する。だが、本人も指摘するように 実際はネイタルかホラリーかは問題ではない。
天体の影響があるとか、ないとかいう根拠の求め方自体が、誤解に基づく。
運命学の実態とは、物理の実態であり、本来 非相対の自己描写なのである。
手に負えない"摂理"に触れる体験こそ、運命学の最大の意義かと思われる。
占術に古典物理学的な相対的根拠を求めること自体、見当違いなのであり、
その線で行くなら、科学ではない方が、より、科学的とすら言えるだろう。
歴史、科学、医療、宇宙、これらの常識は、根本的な虚偽に基づいている。
近い将来、必ず露呈するだろう。